宿
中山道遊山旅


2016/05/12




宿
三留野宿 1里半=5.85Km 妻籠宿




三留野宿の家並み
三留野宿
 三留野宿には32軒もの旅籠屋があったという。それは、木曽路の中でもとくに野尻〜三留野にかけての中山道が最大の難所だったからである。木曽川に沿ってわずかな道が開かれただけで、危険な桟を何ヶ所も渡らなければならない命懸けの道で有名だったのである。天気が悪ければ足止め、無事通過すれば安堵の休息と宿は賑わったのであろう。
 イボ石傍らの高札場跡が三留野宿の入口である。古い家も残っているようだ。
本陣跡
 宿の中ほどに本陣跡があり、「明治天皇行在所」碑や「御膳水」の説明板はあるが建物自体は失われている。

 南木曽駅への道を右に分けた先で20分余り道に迷ってしまった。2年前の土砂災害の復旧工事中の影響らしい。「←中山道→」の小さな道標に従い路地裏に導かれるがその先は「歩きでも通れない」と工事中の人に言われ、アドバイスに従い妻籠方向に向かうとほどなく中山道に出た。

本陣跡

道標(写真左下)に従い路地裏に導かれる

中山道沿いの古民家

園原先生の碑
園原先生の碑
 「木曽名物記」や「木曽古道記」などを残した三留野天神社の神官・園原氏の住宅跡に建つ碑は、天明三年(1783)に建立されたそうだ。

 碑を挟み道路の右下方に南木曽駅のホームが一望できる。宿外れの道をのんびりと歩いて行くと道沿いに古い木舟があり、清水が流れている。木舟のお宅の方に飲めることを確認してペットボトルを満タンにした。

南木曽駅ホーム

道沿いに置かれた木舟(馬の水桶?)
  道端に自然石の道標や道祖神などが置かれた如何にも中山道らしい道を行くと、立場であった神戸集落に入る。
自然石の道標

中山道は左(妻籠宿2.9k)

神戸集落

袖振りの松
袖振りの松
 木曽義仲が弓を引こうとした際、邪魔になった松を巴御前が袖を振って倒しにした。その後、倒れた松から芽が出て何代目かの松が「袖振りの松」である。しかし平成21年、松くい虫により立ち枯れしてしまった。翌平成22年、巴御前が晩年を過ごした富山県南砺市の「巴塚の松」として親しまれている樹齢750年程の黒松の実生苗木を植樹したものが現在の「袖振りの松」である。
かぶと観音
 妻籠に砦を築いた木曽義仲が北陸路に出撃する時、鬼門の守りに兜前立の観音像を外してここに祀ったのがかぶと観音の起こりと伝わる。

戦沢集落(せんさわ)
 かぶと観音を後にし戦沢橋を渡ると「重要伝統的建造物群保存地区」と書かれた大きな説明板がある。昔の雰囲気を残そうと、保存に力をいれているのだろう、自然石の道標や石畳が整備されている。そのすぐ先には、日本橋から80番目の「上久保一里塚」も残っている。

かぶと観音

せん澤道標と石畳の中山道

上久保一里塚

良寛歌碑
良寛歌碑
 一里塚のすぐ先に「良寛の歌碑」が立っている。良寛が木曽路を通った折りに詠まれた二首の内の一首で「この暮れの もの悲しきにわかくさの 妻呼びたてて 小牡鹿鳴くも」と彫られている。

 歌碑からゆるやかな上り坂をしばらくいくと「しろやま茶屋」が見え、そのすぐ先で「妻籠城跡」への道が右に分岐し、傍らに「妻籠宿1.0km」の道標が立っている。

しろやま茶屋

妻籠城跡への道(右)分岐
妻籠城跡
  妻籠は古くから南木曽の要衝であり、戦国時代以前から重要視されていた。城址からの見晴らしがよく、なぜここに城が造られたかが分かる。
  築城時期は室町時代中期、標高521mに位置し、戦国時代には木曾義昌が城主であった。はじめ木曾氏は、甲斐の武田氏に従っていたが天正十年(1582)織田氏に寝返った。その後小牧・長久手の戦いにおいて、最初は徳川家康側に付いていたが、圧力により羽柴秀吉側についた。 元和二年(1616)一国一城令により、廃城になった。

妻籠城跡への道

妻籠城跡(標高521m)

妻籠城跡から妻籠宿を展望

城址分岐から妻籠宿に向かう石畳の下り坂
 城址への分岐まで戻り妻籠宿に向かう。急勾配の石畳の下り坂を500mほどいくと「これより妻籠宿の町並み」と書かれた看板が見え、江戸時代を思わせる民家が並びだす。

宿入口から情緒ある民家が並ぶ

旅籠 大吉
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