中山道遊山旅


2012/03/27
松井田宿 2里15丁7間=9.4Km 坂本宿

 松井田宿は、中山道と妙義神社参道・榛名神社参道とが交わる信州各藩の年貢米等の集散地であり商業が発展した宿場である。

 妙義神社参道が分岐する下町交差点の少し手前辺りに下木戸が設けられていたというが、それらしい遺構や史跡がないばかりか案内板・標識ひとつない。宿場の中心地仲町交差点には、大きな古民家が残されているがここも何の説明もない。その斜め向かい側に《中辻薬局》の看板のかかる蔵造り風の建物があるが松井田は、宿場街であったことに関心がないのだろう。

大きな古民家

蔵造り風の中辻薬局

不動寺仁王門
 街道から離れ不動寺に立ち寄る。桃山時代の作風を残す仁王門は、江戸時代初期の改築だそうだ。仁王門の左手前に三基の異形板碑が置かれているが、観応三年(1352)などの文字が刻まれている石塔婆である。仁王門も石塔婆も群馬県の重要文化財に指定されている。

 不動寺前の街道と並行した道を行く。松井田小学校の先に松井田八幡宮がある。県の重要文化財に指定されている本殿は、華美なところのない渋く味わいのあるたたずまいだ。

松井田八幡宮

補陀寺

旧道らしい道
 西松井田駅への交差点を右に入った山中に松井田城跡がある。豊臣秀吉の小田原征伐の際、松井田城主・大道寺政繁は大軍に攻略されて降伏。以後、道案内を務めて武蔵・忍城攻めに参加した。北条家三家老 の一人である政繁の裏切り行為が秀吉の気に障り切腹させられる。この政繁の墓がある補陀寺は城跡に隣接している。

 補陀寺を出ると取り残されたような旧道らしい道となる。
 補陀寺からしばらく行くと右手の一段高見に道祖神が祀られ、その斜め前に一里塚の案内板が立っている。立札の10m南にその跡をとどめているという《新堀一里塚》と云われても??。いかにも中山道に無関心な松井田町らしい扱いだ。
 一里塚を後にするとJR信越線としばらく並行し踏切を渡る。正面に妙義山を望むのどかな道となり、飛脚を模した道標に従い国道18号線を横断する。
 しばらく行くと高札場跡の立札、ここを右に折れると踏切の向こうに二軒の茶屋本陣が並んでいる。一年交代で本陣を努めた五料の茶屋本陣である。

一里塚跡と云われても?

正面に妙義山

踏切の先に2軒の茶屋本陣

お西 茶屋本陣の塀

信越線の踏切を渡る

飛脚マーク道標

お東 茶屋本陣

お西 茶屋本陣

夜泣き地蔵と茶釜石
 茶屋本陣を後にすると再び踏切を渡る。しばらく行くと夜泣き地蔵。なぜ泣くのかというと、馬方が荷物のバランスを取るため地蔵の頭を持ち去ってしまったからだそうだ。地蔵の手前の石は、叩くと茶釜の音がすると昔から有名な茶釜石である。

 茶釜石を後にするとのどかな田園地帯、曲がりくねった道をゆるやかに下って行く。またまた線路が近づきしばらく線路沿いに行く。

田園地帯を行く


横川駅

碓氷関所跡
 踏切を渡った先で道が途切れている。すぐ先に国道が見えているのでそのまま突っ切るとすぐに旧道が左に分岐する。分岐から30分ほどで横川駅に着く。

 街道に戻り先に進むとすぐに横川茶屋本陣、その先に碓氷関所跡が見える。東海道の《箱根》や《新居》の関所と同様に厳しい取り調べが行われたそうだ。


横川茶屋本陣跡
 関所を出ると寸断された信越線の踏切を渡り国道に接した後、薬師坂の上り道となる。薬師堂を経て再び国道に出る。高速道路をくぐるとほどなく坂本宿の木戸跡に着く。
薬師坂

坂本宿木戸跡
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