中山道遊山旅


2011/12/11
鴻巣宿 4里6丁40間=16.32Km 熊谷宿




わずかに残る風情ある家
【鴻巣宿】

 勝願寺から中山道に戻り少し行くと本町交差点、ここから先が鴻巣宿の中心だが本陣や脇本陣、旅籠など失われ昔ながらの家も、わずかながら見られるものの往時の街道風情はあまり感じられない。歩道に市のシンボルであるコウノトリのタイルが埋め込まれている。

コウノトリの歩道タイル

狛犬
【法要寺の寺紋】
 鴻巣駅入口交差点のすぐ先にある長禄元年(1457)開基の法要寺の寺紋は、加賀百万石 前田家の家紋と同じ《梅に鉢》。これは1650年頃、参勤交代で勝願寺に宿泊予定だった加賀藩一行、《門前下馬》を見落とし住職に「門前下馬の浄刹ゆえ」と、宿泊を断られてしまう。困り果てた前田家一行は、急遽法要寺に懇願、何とか困窮を脱することができた。その恩を忘れず、莫大な寄進と同時に前田家の紋の使用を許可したとのこと。
 法要寺には、五稜郭で新政府軍と戦った後、名を岡安喜平次と改め鴻巣に居住した彰義隊士 関弥太郎の墓がある。

【なぜ、お寺に狛犬】
 境内不動様の前、台座に市神街と彫られた一対の狛犬が置かれている。かつて中山道に在った市神社、明治三年(1870)強風で倒壊し狛犬のみ残されここに移されたそうだ。

法要寺

鴻神社
【鴻神社】
 法要寺のすぐ先に鴻神社がある。明治6年に氷川社、熊野社、雷電社を合祀したもので、鴻三社と呼ばれていた。その後、明治35年から40年にかけて、日枝神社、東照宮なども合祀し、社号を鴻神社と改めた。
 《こうのとり伝説》が鴻巣の地名由来。オランダ人医師シーボルトの残した《江戸参府紀行》などに、日本は野鳥の宝庫で、江戸城下でもコウノトリやトキの姿が普通に見られたと書かれている。

【三狐稲荷神社】
 天狐、地狐、人狐をまつるお稲荷様で良い縁を結び、悪い縁をを断つというご利益がある。
総銅造りのお宮で、木材一本使っていない。明治時代の職人の心意気を示す精巧な細工で、現代の職人では再現がとても難しい造りだそうだ。作られてから約100年経っている。

三狐稲荷神社

旧鴻の宮

池元院
【変わる街道の雰囲気】

 鴻巣宿は、Y字分岐する池元院の辺りで終わる。その分岐を左に行きすぐにJR高崎線の踏切を渡ると日本橋を発って以来はじめて、街道の雰囲気が変わりのどかさが感じられる。街道の右左には多くの寺社が点在する。

永林寺

箕田観音堂

白山神社

光徳寺

龍昌寺

氷川八幡神社
【武蔵武士の本拠地】

 氷川八幡神社は踏切から2.5Kmほど、渡辺綱を祀る八幡社と箕田郷27ヶ村の鎮守として崇敬されていた氷川神社が、明治六年合祀された神社である。
 箕田碑は宝暦九年(1759)造立。渡辺綱の武勇の誉れが高いことや、箕田の地が武蔵武士の本拠地であることなどが記されている。
 渡辺綱は、源頼光の四天王となり《酒呑童子》退治伝説の人となる。晩年は、生地の箕田に戻り、72歳で没する。

箕田碑

馬頭観音
【武蔵水路】

 氷川八幡神社を後に、満願寺入口バス停を越した辺りの馬頭観音、民家の塀にわざわざ窪みを作り祀られている。そのすぐ先の武蔵水路は、昭和39年(1964)東京オリンピック開催を前に《水不足》の東京に利根川の水を引くためにできた水路とのこと。中宿橋で水路を渡ると街角に選挙ポスターと並んで5個の石碑が置かれているが何なのかは分からない。先の馬頭観音とは扱いが違う。

武蔵水路(中宿橋より)

街角の石碑群

箕田の追分(左:中山道)
【箕田の追分】

 石碑群のすぐ先が箕田の追分、右に行田・忍道を分ける。石田三成の水攻めに耐えた《のぼうの城 和田竜著》で描かれた忍城への道だ。左に地蔵堂、分岐には立派な《中山道案内》板があり、この周辺の江戸時代の様子や箕田源氏ゆかりの地であることなどが書かれている。

地蔵堂

六地蔵碑
【史跡の標柱】

 追分を過ぎると田園風景が広がる。苗木バス停前の広場に六地蔵碑を見送り、しばらくすると立派な前砂村碑、《前砂村 「池田英泉の鴻巣・吹上富士はこのあたりで描かれた」》と刻まれている。これに比し余りにみすぼらしい前砂一里塚碑。説明板の文字は剥げ落ちてとても読み取れるものではない。この少し先の分岐にも立つ真新しく堂々たる中山道碑、史跡的には意味がないように思えるのだが……。
 分岐の先でJR高崎線を渡りすぐに左折、妙徳地蔵を経るとほどなく吹上駅入口交差点となる。

前砂一里塚碑

中山道碑

前砂村碑

妙徳地蔵堂
 吹上駅への道を左に見送りしばらく行くと本町交差点、右折は忍城への道、中山道は左折する。大きく右カーブする街道に面して東曜寺と吹上の鎮守である吹上神社が並んでいる。

 神社の少し先で中山道は高崎線によって分断されている。これを渡る歩道橋の下に立派な《間の宿説明板》が設置されていて、その意義や荒川のうなぎが名物だったことなどが記されている。

東曜寺

間の宿碑

吹上神社

権八延命地蔵堂
【権八延命地蔵】

 線路を渡ってしばらく歩くと熊谷堤に出る。江戸時代もだいたいこの辺りから土手に出ていたそうだ。土手の手前に小さな地蔵堂がある。堂には《権八延命地蔵》別名《権八ものいい地蔵》が安置されている。歌舞伎《鈴ヶ森》の白井権八(本名:平井権八)にまつわる地蔵である。

権八延命地蔵

熊谷堤

久下一里塚跡
【熊谷堤】
 荒川の土手に上がる。この土手は、熊谷堤だが別名・久下の長土手と呼ばれ、中山道の難所のひとつだったそうだ。土手から荒川は見えない、広大な原っぱだか畑だかが見えるだけだ。
 昭和22年(1947)カスリーン台風で決壊した地点に立つ《決壊の跡》碑先に大きなマンションが建っている。そのマンション前の土手下に久下一里塚跡がある。
【久下集落】

 熊谷堤を右下に下り久下集落に入る。久下村の鎮守・久下神社を経て集落を離れ熊谷堤に向かうと、再び《権八延命地蔵》がある。どちらが安政五年(1858)刊行の《五海道細見記》など歴史資料に載る地蔵なのかは定かでないとのこと。

久下神社

権八延命地蔵堂

かつての久下橋
 地蔵堂の裏手につながっていた中山道は失われいったん土手に上る。かつてはその先に荒川に架かる木製の久下沈下橋が架かっていたが、現在のコンクリート製橋の完成(2003年)と同時に取り壊されたそうだ。
 土手を少し歩いて下ると民家の塀の内側に《みかりや跡》の案内板が立っている。昔はここに《御狩屋茶屋》と呼ばれる有名な茶屋があったそうだ。中山道はここから土手を離れる。

中山道右の塀内に《みかりや跡》案内板

達磨石

八丁一里塚

熊谷駅前の熊谷直実騎馬像
 茶屋の先にある東竹院境内に達磨石が置かれている。この石は、秩父山中から筏に乗せて運ぶ途中で荒川に転落。それから250年ほど経った大正14年(1925) 偶然にも東竹院前で発見され川底から掘り起こされたそうだ。

 小さな公園に八丁一里塚跡の説明板が立っている。日本橋から16番目の一里塚を経て秩父鉄道とJRの線路を渡ると熊谷駅は直ぐだ。駅前には北村西望作の熊谷直実騎馬像が置かれている。
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