中山道遊山旅


2012/02/08
桶川宿 1里30丁=7.14Km 鴻巣宿


【昔ながらの家残る桶川宿】

 桶川宿に入ると街道沿いには土蔵造りの家や江戸後期の建物が歴史を感じさせてくれる。国登録有形文化財の武村旅館は旅籠の面影を色濃く残しているし、当時の穀物問屋であった土蔵造りの島村家や旅籠から材木商となった小林家も共に国登録有形文化財として残っている。その他にも多くの古民家が中山道の趣を醸しだしている。


島村家土蔵

桶川宿本陣遺構
【お助け蔵】
 天保七年(1836)の建築。天保の大飢饉に苦しむ人々に蔵造りの仕事を与えるために建てられたことから「お助け蔵」と伝えられている。国登録有形文化財に指定されている。
【本陣遺構】
 本陣の一部が江戸時代そのままに残されている。この建物は、傾きかけたものを解体後、当時の材料をそのままに、同じ場所に再建したもので、埼玉県指定文化財となっている。


稲荷神社
【稲荷神社】
 嘉録年間(1225〜6)、稲荷社の修復が記録されている。また、元禄期81688-1703)における「桶川宿絵図」にも「いなり明神」とその存在が記載されている。

【力石】
 嘉永五年(1852)寄進の力石(610Kg)。「力石」としては、文字通り日本一の大きさ・重量である。江戸で力持ちとして有名だった力士・三ノ宮卯之助が持ち上げたそうだ。石には《大盤石》《卯之助》と刻まれている。

大盤石(力石)


地蔵の背に鎹
【若い僧の煩悩に粋な計らい】
 大雲寺境内に三体の地蔵が並んでいる。台座に正徳三年(1713)と彫られた地蔵は《女郎買い地蔵》と呼ばれている。背中に鎹が打ち込まれている、そのいきさつが面白い。
 遊女に熱を上げ、坊主頭を布で隠して人目をしのび通い詰めた若い僧、怪しんだある人が、その後をつけてみたところ大雲寺の中へ帰っていった。これを知らされた住職は、必ず見つけ出して仕置きすると約束。 次の日になって、鎹と鎖で動きを封じられた地蔵が立っていた。 住職は煩悩多き若い僧に、その罪を地蔵菩薩に被っていただくゆえ、以後は心を入れ替えて精進するよう諭し、一件を落着させた。 地蔵の背には、今も鎹が残っている。

大雲寺


北本宿公園:宿場跡
【史跡案内】
 桶川宿には史跡や遺構が数多く残されているが、一里塚跡には感心した。案内板が歩道橋の橋脚に巻きつけてあるだけのお手軽さ。これでよいと思う。遺構であれば大事にして欲しい。再現遺構であればまだしも、単に立派な石柱やこけおどしのモニュメントなどは意味がないだろう。
【かつては北本宿が】
 桶川宿を後にするとこれといった史跡もなく北本市に入る。本宿交差点には立派な《北本の歴史・中山道と本宿》の案内板が置かれている。江戸時代初期はここが宿場で賑わっていたそうだ。後に宿場は、家康の鷹狩御殿があった鴻巣に移され、ここは立場に変わったとのこと。

歩道橋の柱に一里塚跡案内板


ムクロジ
【多聞寺のムクロジ】
 多聞寺の開山は万治四年(1661)。 境内のムクロジ(推定樹齢400年)の木は県指定天然記念物である。落葉高木。木肌に凹凸が多く異様。茶色の殻を剥くと黒い玉が現れる。羽根突きの黒玉がこれである。

【天神社の算額】
 多聞寺に隣接する天神社に算額の案内板がある。算学は、中国から伝来した数学を関孝和(1643〜1708)らによって改良発達された独自の学問である。算学を学ぶ人々が問題の解法などを記録して神社・仏閣に奉納したものが算額である。天神社に奉納された算額は、明治24年のもの。算学は、明治5年(1877)の学制で採用されなかったが、民間では明治中期頃でも盛んだったのだろう。

多聞寺

天神社

算額


原馬室一里塚跡
【原馬室一里塚】

 江戸時代の初期まで中山道は、多聞寺から斜めに北本駅に向かい、その先の踏切を渡り線路の左に沿って通っていたそうだ。この古中山道を北本駅から1kmほど行った辺りに日本橋から11番目の原馬室一里塚跡がある。中山道の道筋が変わり畑の中に取り残されたのだろう。《一里塚跡》と彫られた石碑が置かれている。

一里塚碑


馬頭観音
【勝林寺の馬頭観音】

 一里塚から中山道に戻り、寛永元年(1624)建立の勝林寺に向かう。境内には馬の顔が線刻で描かれた珍しい2基を含め6基の馬頭観音が並んでいる。

多聞寺の馬頭観音

線刻馬頭


                      富士塚
【東間浅間神社】
 中山道を挟み、勝林寺の斜め向かいに東間浅間神社はある。広い境内の奥に小高く土盛りされた富士塚の頂に立派な社が建っている。神社の入口に、庚申様と書かれた小さな社があり、本尊は猿田彦尊とある。

                 《是より こうのす宿》碑
【人形の町 鴻巣】
 東間浅間神社から先は平凡な道路となりるが、鴻巣に入ると人形を扱う店が目につく。天正年間(1573-92)、京都伏見の人形師・藤原吉圀が鴻巣に住みつき、土雛と作り売ったのが始まりとのこと。


勝願寺山門
【勝願寺】

 鴻巣宿に入り、わずかながら古民家の残る宿場を少し行くと文永年間(1264-75)創建、関東18檀林の名刹・勝願寺の山門が見える。広々した境内を行くと格式ある奥の山門、葵の御紋が使われているのは鷹狩を好んでいた家康が頻繁に立ち寄ったからだそうだ。これらの建物群は、明治3年の大旋風による被害と、同15年に起こった火災によって殆どが失われてしまいその後再建されたものである。

勝願時仁王門


小松姫の墓
【小松姫の逸話】

 勝願寺本堂脇には、本多忠勝の長女で真田信之に嫁した小松姫の墓がある。小松姫は、徳川四天王の一人である本多忠勝の長女、信州上田城の名将・真田昌幸の長男信之の妻となった女性。
 慶長五年(1600)、関ヶ原合戦が始まる時、信之は徳川軍に、父・昌幸と弟・幸村は石田三成軍と敵味方に分かれる。宇都宮で徳川軍に従軍していた昌幸、幸村親子は急遽、自陣の上田城に向かう際、戦が始まれば敵味方、これが最後と孫の顔を見るべく信之の沼田城に寄ることにする。信之が留守の沼田城に着いた昌幸に使者が「城に入れるわけにはまいりません」と告げる。激昂する昌幸に城門の上から勇ましい声が。「父上殿といえども今は敵方、城に入れるわけにはまいりませぬ!」。緋縅の鎧に薙刀を持った小松姫の大音声。仕方なく、場外に陣を張ろうとすると、再び使者が来て「陣は正覚寺にお張り下さい」と言う。正覚寺には、かがり火が焚かれ、酒肴が用意されている。その夜、人目をはばかるように小松姫とその子供たちが昌幸の天幕を訪れてきたのだった。
 後年、病にかかり江戸から草津温泉へ湯治に向かう途中、鴻巣で没した。享年49歳、荼毘に付され遺骨は勝願寺と沼田、上田の3ヶ所に分骨された。
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