中山道遊山旅


2012/02/05 他
蕨宿 1里14丁=5.41Km 浦和宿


                   蕨宿模型(歴史民俗資料館)
【蕨宿】
 蕨宿は、日本橋からの距離4里28町(18.7km)。江戸に入る《戸田の渡し》の手前にあるので川が増水すると《川止め》となり、当宿に逗留せざるを得ずそのため比較的大きな宿場であった。宿の周りは、見沼代用水から引いた用水堀で囲まれ防火機能と防犯機能を果たしかつ農業用としても利用されていた。
 江戸に向かう旅人にとって蕨を越えると鰻が食べられる店がなくなってしまうため、ここで鰻を食べるお客が多く,浦和宿とともに鰻の有名な宿場町でもある。


【蕨宿と鉄道】
 明治2年、中山道に沿って走らせる鉄道が計画された。東海道と同様、、各地に建設反対ののろしが上がる。蕨宿も宿場ぐるみで猛反対。明治16年、高崎線が開通したとき鉄道は宿場から1kmも東に敷かれてしまう。その後、認識が変わり駅の設置運動を展開、明治26年、蕨駅及び宿場とを結ぶ新道が完成した。

【蕨宿と古民家】

 鉄道から離れていて開発の波が緩やかだったからか、宿場には古民家が数多く見られる。平成22年2月、中仙道蕨宿まちづくり協議会により景観建築物が指定され、中仙道沿に建つ江戸末期から昭和初期に建築された12件が指定された。

左右6枚の写真は街道沿いの古民家


歴史民俗資料館分館

蕨宿本陣跡(左に資料館)
【歴史民俗資料館分館】
 蕨宿の木戸をくぐり少し行くと《歴史民俗資料館別館》。明治時代に織物の買継商をしていた家を蕨市が資料館として公開している。建物は、木造平屋寄棟造り。中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に建てられたもの。住まい部分に接して造られた白い漆喰壁の土蔵の内部や、珍しい電話ボックス、機織機、渋沢栄一直筆の額などとともに贅を尽くした和室から静かな庭園を眺めることができる。
【本陣跡】
 二軒あった本陣の一つで《岡田加兵衛本陣》跡に本陣門を復元、隣接して歴史民俗資料館が建っている。蕨の歴史と文化、宿場や織物に関する資料を中心にして各テーマごとに分りやすい展示がされている。宿場コーナーには、中山道と宿場の様子が細かに復元され、庶民の旅立ちの様子や持ち物、関所の通行手形などが展示されている。旅籠での庶民の食事と本陣における大名の食事対比展示は興味深い。

【和楽備(わらび)神社】
 本陣跡の交差点を右折し市役所通りを駅に向かって数百m行くと右に和楽備神社がある。明治44年(1911)、蕨町内にあった天神社、稲荷神社、榛名神社など18の鎮守社を合祀した神社である。本殿の裏手に日清・日露・太平洋の各戦没慰霊碑が並んでいる。このように戦争碑が一ヶ所にまとまる例は稀だそうだ。


             長泉寺本堂屋上のおしゃみの鐘

【長泉院:おしゃみの鐘】
 中山道から少し離れた長泉院は、宝暦三年(1753)創建で檀家を持たない祈願寺。円実という沙弥が創建したことから一般に《おしゃみ》という通称で知られている。梵鐘は宝暦八年(1758)鋳造、江戸時代の名鐘の一つに数えられている。蕨宿では《おしゃみの鐘》とよばれ、美しい音色をもつ時の鐘として親しまれてきた。現在、梵鐘は本堂の上に設置されている。
沙弥(しゃみ):妻帯して世俗の生活をしている僧。

                   蕨城跡碑

【蕨城跡】
 蕨城跡は和楽備神社と隣接している。城は貞治年間(1366頃)に、将軍足利氏の一族・武蔵国司・渋川義行が城を構えた。戦国時代には、小田原 北条氏の武蔵進出で蕨城をめぐる攻防が繰り返された。その後、渋川氏は北条氏と関東管領 上杉氏の間を転々とし、結果的に渋川義基は、国府台合戦(永禄10年(1567))で北条方として上総三舟山に出陣するも同地で討ち取られ、蕨城も廃城となった。後に家康の入封に伴い鷹狩りの為の館として再造営されたが現在、土累と水堀の一部を僅かに残すのみである。    


                 子育地蔵と六地蔵

【子育地蔵 ・六地蔵】
 本陣跡の少し先に地蔵への小径が右に分岐する。150mほど行くと、右手に地蔵堂が建ち元禄七年(1694)造立の子育地蔵と寛文〜元禄年間(1661〜1704)造立の六地蔵が安置されている。

                      三学院
【三学院】
 地蔵への小径の正面に三学院山門、三学院の創立年代は不明だが、現存する資料から中世以前の創建と考えられている。天正十九年(1591)には、徳川家康より寺領20石を寄進する旨の朱印状が授与されている。江戸時代には《関東七ヶ寺》の一つとして僧侶の教育機関であった。


        古い跳ね橋
【徳丸家のはね橋】

 蕨宿の周りは、防犯と防火を兼ねて用水堀で囲んでいた。日中は堀に幅60cmほどのはね橋を架けて出入り、夜間は、防犯と飯盛女や助郷・機織女工などが逃げ出さないよう橋を跳ね上げ鎖で縛り堀を越えることが出来ないようにした。《はね橋》を利用する例は、他の宿場には見られず蕨宿の特徴とされている。現在、堀は暗渠になりはね橋は無用になった。最近まで唯一残されていた《徳丸家のはね橋》も取り壊され、代わりに真新しいはね橋を取り付けてくれたようだ。新しいはね橋に何の説明もされていないが、徳丸家が観光客のためにわざわざ取り付けてくれたのだろう。

              わざわざ作り変えてくれた《はね橋》


                     辻の一里塚
【辻の一里塚】
 徳丸家を後にするとほどなく宿はずれ、曲がりくねった道をしばらく行き小さな用水路を越しさいたま市に入るとすぐに《辻一里塚公園》、東京外環自動車道下との交差点のところだ。日本橋から5番目の一里塚跡碑が立てられている。

                   熊野神社
【辻の熊野神社】
 辻の熊野神社は「おくまんさま」といわれ、昔から辻の鎮守様として地域の人々から親しまれ敬われてきた。仏教の影響を受けた熊野権現信仰は、神仏習合のかたちで明治まで続き、明治初年の神仏分離令、明治39年神社合祀令に、存続の危機にさらされたが、村民の強い願いで大正2年荒廃した本殿を改修、復活させたという。


                      焼米坂

中山道の名所を描いた《木曾路名所図会(文化二年 1805)》に「辻むらには熊野権現のやしろあり」とある熊野神社を左に見送り、住宅街を抜けると《焼米坂》、浦和宿に入る前の立場となっていた。正式名は浦和坂だが、焼米を売る店が多く、坂の名もそこから名づけられたようだ。焼米とは籾のままの米を焼き、それをついて殻を取って売られたという。浅草名物《雷おこし》のルーツだそうだ。

                     調神社の森

【調神社】
 焼米坂を後にするとほどなく鎮守の森が見えてくる。調神社の森だ。調神社は正式には「つきじんじゃ」だが、地元では「つきのみや」或いは「つきのみやじんじゃ」と呼ばている。社伝によれば、開化天皇3年(紀元前156年)に創建された由緒ある神社である。

           鳥居はなく、狛犬に代わって兎が鎮座

【調神社にはなぜ、鳥居がないのか】
 社名の《調》は租庸調の調。調はみつぎもの。調神社は武蔵・総国の調の集積所。調の運搬の妨げとなる鳥居が取り払われ今もそのままとなっている。

                 水屋で霊水を注ぐ兎

【兎信仰】
 時代が移ると《調》の役割も終わり、いつしか調は《つき》から《月》となり、兎を神の使いとする《月神信仰》と重なりここの守り神となったそうだ。
中山道                              アクセスカウンター