中山道遊山旅


2012/02/05 他
浦和宿 1里10丁=4.98Km 大宮宿




浦和宿碑
【浦和宿】

 調神社を過ぎるとほどなく歩道に真新しい浦和宿碑が立っている。調神社前後で見られた古民家だが宿碑からはビル街に変身、遺構も史跡も見当たらない。浦和駅への道を右に分け宿場中心地に入っても変わらない。

調神社付近の古民家


玉蔵院山門
【玉蔵院】

 浦和駅への分岐から200mほど行くと左に門前通りが分岐する。その突き当りに立派な仁王像が構える山門、その奥に玉蔵院がある。平安時代に創建された玉蔵院は、弘法大師が開山したと伝えられる。関東十檀林(仏教の学門所)の一つに数えられた古刹であるが、元禄十二年(1699)一宇も残さず焼失。現在の本堂は元禄十四年(1701)に、地蔵堂は安永九年(1780)に再建されたもの。また山門は、家康の浦和御成り御殿表門を山門として拝領したが現在の山門は、文化年間に再建された2代目である。

 境内の一角に天正十九年(1591)、家康から寺領十石と寺中不入(支配者の検断権を拒否する意味)を認めた寄進状により門前に建てられていたと言う《守護使不入》石杭が残されている。また、浦和の桜開花を示す桜として有名な樹齢100年以上の枝垂桜やけやきの古木もある。


《守護使不入》石杭

玉蔵院境内

上:本堂、下:地蔵堂


浦和宿本陣跡
【浦和宿本陣跡(仲町公園)】

 仲町交差点に《浦和宿》の真新しい石碑がある。この先は、市街地の賑わいも治まり閑散とするが、浦和宿の中心はこの前後だったそうだ。石碑の数十m先の(案内標識なし)路地を入ると市指定史跡の本陣跡がある。本陣等の建物は明治になってすべて取り壊されたが、表門だけは大間木の大熊家に移築され現存する。
   浦和宿本陣表門


御殿跡(徳川家康鷹狩り休憩所)
【御殿跡(常盤公園)】

 本陣の少し先の古民家角を左に折れると市場通り、正面に常盤公園が見える。曲り角に市場通り碑と野菜を売る女像が置かれている。常盤公園は、徳川家康・秀忠が鷹狩りの際の休憩所として使用、その後も《御殿跡》の名で幕府に保護されてきた。明治26年、ここに浦和地方裁判所が建設された。昭和48年、裁判所が県庁の南へ移転した後、常盤公園となる。

上:古民家、下:市場通り碑


市神と市場定杭
【慈恵稲荷社、二・七市場跡】

 野菜売り像の数十m先、慈恵稲荷神社の社頭に《市神様》と《市場定杭》が建てっている。二・七市場跡である。この市場の歴史は古く、豊臣秀吉の家臣・浅野長政が許可したと伝わっている。市神と定杭を残す市場跡は、全国的にも例がなく近世の商業史を知る上で貴重なものだそうだ。江戸期には毎月二と七の日、ここを中心に南北二町(約220m)の範囲で市が立ったという。


慈恵稲荷神社(二・七市場跡)


廓信寺山門
【廓信寺と一本杉の仇討】

 浦和宿を外れJRを浦和橋で渡ると電線地中化と歩道の整備により非常にすっきりした中山道が続く。北浦和駅の少し先の廓信寺は、さつま芋の紅赤発祥地だそうだ。また、この少し先の一本杉碑の辺りで仇討で討たれた河西雄祐之助の墓がある。文久四年(1864)、水戸藩家臣宮本鹿太郎が父の仇として本懐をとげたものである。明治六年(1873)に仇討禁止令が発布される9年前のことだ。

廓信寺前の中山道

一本杉碑


旧高台橋より駅のホーム
【さいたま新都心】

 与野駅前をすぎると美しいケヤキ並木が続く、左は線路を挟みビル街、ほどなくさいたま新都心駅前へ。江戸時代この辺り一帯は野原で下原刑場と呼ばれる処刑場があった。明治維新後、刑場は廃止され牧場から製糸工場、ゴルフセンターなどから新都心へと何度も大変貌を遂げている。

ケヤキ並木の中山道

さいたま新都心駅



かつて刑場や牧場であった,、さいたま新都心駅前を振り返る
【刑場跡に火の玉不動】

 さいたま新都心駅前に《火の玉不動》と呼ばれる石仏が立っている。刑場で果てた人の供養塔だそうだ。これと並んだお女郎地蔵は、悲恋の果てに高台橋から身を投げた。近隣の人たちが地蔵を立て霊を慰めたという。地蔵の側面に「寛政十二(1800)申二月建立」とある。

 また1kmほど先には《涙橋》と刻まれた碑が置かれている。かつて中之橋という石橋が架かっていた辺りで、刑場に送られる罪人と家族などとの別れの場となっていて、橋はいつの頃からか《涙橋》と呼ばれるようになったそうだ。

火の玉不動、お女郎地蔵

涙橋碑


安藤橋碑
【古中山道】
 さいたま新都心駅から少し行くと右に氷川神社参道一の鳥居が見え、神社まで18丁(2km)のみごとなケヤキ並木が続く。かつてはこの参道が中山道であったが江戸時代になり旅人が急増、街道が神域を通るのは不謹慎ということで、寛永五年(1628)参道沿いの民家を含め移転した。
【安藤橋由来】
 一の鳥居の先の吉敷町交差点に《安藤橋》と彫られた小さな石碑がある。大宮宿の南の入り口であったこの場所に排水路があり石橋が架かっていた。橋名は、江戸時代後期 大宮宿大火の際、幕府の御用米・御用金を独断で宿民に施し急場をしのいだが、その責任をとって切腹した安藤弾正に由来している。
【加賀屋敷門】
 吉敷町交差点の先に立派な屋敷門が見える。明治維新後各藩が国元に帰るため財産を処分した時、加賀藩屋敷の裏門を買い請けたそうで、鬼瓦には葵紋がつく。門扉にべたべたと貼られたポスターは興ざめというより余りに不粋だ。

氷川神社参道一の鳥居(左は中山道)

加賀屋敷門


塩地蔵(左)、子育て地蔵(右)
【塩地蔵・子育地蔵】

 中山道を挟み加賀屋敷門の斜め前の路地を入ると、塩地蔵が祀られている。《塩断ち》した二人の娘のご利益で父の病が全快、喜んだ父娘はたくさんの塩を奉納、その後人々はここに塩を供えるようになったそうだ。今も、たくさんの塩が供えられていた。

 塩地蔵から大宮駅までの中山道はビルが立ち並んでいるが、2軒の崩壊しかけの古民家が異様な姿を晒している。

ビル街に放置された古民家
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