中山道遊山旅


2012/02/04 他
板橋宿 2里10丁=8.88Km 蕨宿



                  板橋駅前に近藤勇の墓

 埼京線の踏切を渡り、人影もまばらなかつての街道らしい商店街を抜ける。国道17号線の陸橋をくぐったすぐ先が板橋宿。宿場に入る直前、中山道から右に折れ東光寺に立ち寄る。
【駅前に近藤勇の墓】
 埼京線板橋駅付近にはかつて処刑場があり、新選組隊長・近藤勇が斬首された。駅前に墓があり、訪れる人も少なくない。


                 中山道を横断する埼京線

【なぜ宇喜多秀家の墓が】


 東光寺には関ヶ原の戦いで敗れ八丈島に流された西軍の副将・宇喜多秀家の墓がある。その子孫も島から出ることを許されず264年後の明治3年ようやく赦免、秀家の妻が前田利家の娘であり、加賀藩として遠島後、子々孫々に渡り援助を続けてきた。板橋に加賀藩の下屋敷があったことから、板橋に宅地を与えられ墓も板橋に移されたそうだ。秀家は息子と共に島に流され50年、83歳で没した。はたして、失意の日々だったのか、心穏やかな日々だったのか……、墓の前で思いを馳せる。


【青面金剛像を刻んだ庚申塔】

 全国で最も勝れた青面金剛像を刻んだ庚申塔。寛文2年(1662)建立の、高さは2メートル近くあり板橋区の文化財に指定されている。

      宇喜多秀家の墓

           庚申塔

                      観明寺赤門

【遍照寺:路地裏の馬頭観音】
 中山道に戻ると板橋宿。しばらく行くと路地の入口に遍照寺と彫られた立派な石柱、路地は板橋宿の馬つなぎ場で、寛政十年(1798)のものなど多くの馬頭観音が残されている。江戸時代には馬の供養と結び付いて信仰された馬頭観音、欧米には死んだ家畜を供養をするという習慣はないようだが、日本では動物ばかりでなく針供養など道具に対する供養まである。
【観明寺】
 明治6年、当時の住職がさびれゆく板橋宿に活気を取り戻そうと成田山新勝寺から不動尊の分身を勧請し縁日を開いた。その名残でこの寺の前の通りの旧中山道を不動通りという。今も出世不動として親しまれている。
 山門は、加賀藩下屋敷内通用門を移築したもの。


                    遍照寺 馬頭観音

                      文殊院
【遊女の墓】
 遍照寺のすぐ先の文殊院には飯盛り女(遊女)の墓がある。借金の形に売られてきた飯盛り女は馬や牛などと同じ扱い、そのほとんどは無縁仏となった。遊女の墓は、旅籠屋の一つである《大盛川》の主人、盛川屋元助が遊女たちを供養するために造ったもの。墓の横に《遊女の墓、薄幸の美女の献身を悼み 大盛川楼主建之 正面家族側面遊女》と彫られた石碑がある。大きな墓石の横の小さな墓石が遊女の墓なのだろう。薄幸だっただろう彼女たちの冥福を祈る。

          遊女の墓


           板橋
【板橋】

  板橋宿で最もにぎわっていたのが石神井川に架かる《板橋》前後、板橋の地名由来になったと言われている。現在の橋は、昭和47年に架け替えられたコンクリート製の橋だが、欄干に木目模様を施すなど宿場の雰囲気になじんでいる。

                 石神井川に架かる板橋


         縁切り榎                   絵馬掛け

【志村一里塚】
 縁切榎を後にし国道17号線と合流ししばらくすると両側にみごとな枝振りの榎が見える。日本橋から3番目に当たる志村の一里塚。中山道で当時の原形を伝える一里塚は、この志村と28里目(高崎・板鼻間)のみで、大正11年国の史跡に指定された。
【縁切り榎】
  板橋のすぐ先の《縁切榎》は、男女の縁や難病・酒などとの悪縁を断ち切る霊験があるという。傍らの絵馬掛けに『1日でも、1分1秒でも早く○○とのとの縁を切れますように……』とか『○○○○と離婚できますように』などたくさんの実名入り絵馬が奉納されている。藁にでもすがりたい思いなのだろう。


              志村一里塚(京へ向かって右側)


                   清水坂

【薬師の泉】
 下りきった清水坂の少し先で国道17号線を横断する。国道を少し右に行った《薬師の泉庭園》に寄り道する。徳川幕府八代将軍・吉宗が鷹狩の帰り大善寺という禅寺に立ち寄り、この地の風景の美しさと清水の美味しさに感激、本尊の薬師に「清水薬師」の名を授けたことに由来するという。その後、江戸の人々の注目を集めて名所になったということが『江戸名所図会』にも紹介されている。現在の公園は、1989(平成元)年に「医王山薬師院大善寺」の庭園を史料に基づいて復元したもの。
【清水坂】
 一里塚を後にするとほどなく国道と離れ、勾配のきつい上り坂となる。旧中山道最初の難関、清水坂である。登りながらS字に曲がり、坂の頂上付近に《清水坂 板橋・戸田》と刻まれた碑が立っている。急カーブの急な下り坂の途中にも同じ碑がある。清水坂の名は、近くにある清水薬師から付けられたそうだ。舗装された現在、難所のイメージはわかない。


                    薬師の泉公園


                   戸田橋


【水神社】
 国道の戸田橋で荒川を渡り土手沿いに100mほど下流に向かうと、東京側には残っていない《渡船場跡》碑が立っている。近くには《水神》を祀った神社も残っていている。もとは荒川の岸辺にあったが、新堤防ができたときに移されたそうだ。境内正面に《水神宮》や《船玉大明神(船の守り神)》と刻まれた大きな石碑がある。《水神宮》の碑には、寛政八年(1796)の銘がある。
【戸田橋】
 国道を横切った中山道はすぐに環状八号線にぶつかり行き止まり。その先に、路地裏の小道のようなような中山道が続いている。迂回してこの小道を行くとほどなく17号線と合流。志村橋を渡った先で中山道に戻り、再び国道の戸田橋で荒川を渡る。
 江戸防備のため主要河川に橋を架けず舟渡しになっていた。戸田橋の下流100mほどの辺りが渡し場だったらしい。荒川は江戸を出て最初の大河、多くの旅人が緊張した場所であっただろう。明治8年(1875)最初の戸田橋(木製,有料)が完成し、渡船の役割が終わった。
                    水神社 

               蕨宿入口(左:国道、右:中山道)

【歴史民俗資料館分館】
 木戸をくぐると、ところどころ古民家が見られる。それらの家には《中仙道蕨宿 景観建築物》と書かれた木札が掛けられている。少し行くと《歴史民俗資料館別館》明治時代に織物の買継商をしていた家を蕨市が資料館として公開している。建物は、木造平屋寄棟造り。中山道に面した店舗の部分は、明治20年(1887)に建てられたもの。住まい部分に接して造られた白い漆喰壁の土蔵の内部や、珍しい電話ボックス、機織機、渋沢栄一直筆の額などとともに贅を尽くした和室から静かな庭園を眺めることができる。
【蕨宿】
 水神社付近から先、中山道は寸断されはっきりしない、適当なところで国道に戻る。見るべきもののない国道を2qほど行くと蕨宿入口、ここで国道と分かれ旧道入口の木戸のモニュメントをくぐる。



                   歴史民俗資料館分館

               長泉院本堂屋上のおしゃみの鐘


【蕨本陣:歴史民俗資料館】
  歴史民俗資料館は、蕨宿に二軒在った本陣の一つ岡田本陣跡に建ち、蕨宿と織物に関する資料を中心に展示している。宿場風景や、旅籠・商家・本陣上段の間などを再現した展示や、町並みを復元した模型などがある。
【長泉院:おしゃみの鐘】
中山道から右に少し離れた長泉院は、宝暦三年(1753)創建で檀家を持たない祈願寺。円実という沙弥が創建したことから一般に《おしゃみ》という通称で知られている。梵鐘は宝暦八年(1758)鋳造、江戸時代の名鐘の一つに数えられている。蕨宿では《おしゃみの鐘》とよばれ、美しい音色をもつ時の鐘として親しまれてきた。現在、梵鐘は本堂の上に設置されている。
沙弥(しゃみ):妻帯して世俗の生活をしている僧。


                  蕨本陣(歴史民俗資料館)

                     和楽備神社

【和楽備神社】
 本陣跡から蕨駅に向かう。蕨宿は鉄道を通すとき猛反対して宿場から1qも離れたところに通したそうだ。宿場にとってそれが良かったのか悪かったのか?中山道沿いは、高度成長期のやみくもな都市開発の波を受けることなく古民家が数多く残されている。

  本陣北側の交差点を右折,市役所通りを東へ200m,右手に「和楽備神社」が見えてくる。「和楽備神社」の名称は,明治44年(1911)に蕨町内にあった18の鎮守社を合祀した際に名付けられた。

                     蕨城跡碑

【蕨城跡】
 室町時代から戦国にかけて、足利氏の一門である渋川義行が武蔵国司として居城し、戦国時代には、小田原北条の武蔵進出で蕨城をめぐる攻防が繰り返され、北条氏康の時代その支配下となった。その後渋川氏は北条と関東官僚上杉氏の間を転々とし、結果的に渋川義基は、国府台合戦(永禄十年(1567))で北条方として上総三舟山に出陣するも同地で討ち取られ、蕨城も廃城となった。絵図によると地上約12m幅の堀と約8mの土塁をめぐらした平城であったと考えられている。後に家康の入封に伴い鷹狩りの為の館として再造営され,鷹場御殿として使われたが,現在,蕨城の遺構は市街化も含めて殆ど残されてはいないが,土累の一部と僅かに残る水堀の存在が城であったことを偲ばせてくれる。
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