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日本百名城

No.27 上田城(うえだじょう)
別 名  尼ヶ淵城、伊勢崎城、松尾城、真田城
城地種類 平城
築城年代 大正11年(1583)
築城者 真田昌幸 
主要城主 真田氏、仙石氏、松平(藤井)氏 
文化財・史跡 国指定史跡、県宝3件
 天守の現況
関連施設 上田市立博物館
所在地(訪城日) 長野県上田市(2018/11/30)

上田城址案内図
 天正11年(1583)、真田昌幸によって築城された上田城は、第一次・第二次上田合戦で徳川軍を二度にわたり撃退した難攻不落の城として知られる。関ヶ原の合戦後破却された上田城は仙石氏が城主の時代に再建され、7基の櫓と2基の櫓門が建てられた。明治維新後、西櫓1基を残しそのほかの櫓・櫓門は取り払われた。城外に移築されていた2基の櫓は後に買い戻され、昭和18~24年(1943~1949)、現在の南櫓・北櫓として再移築された。平成6年(1994)、には東虎口櫓門が復元された。


二の丸橋
 もともとここは土橋にて二の丸に入るようになっていたが、二の丸堀の跡に電車を走らせるめこの土橋をこわし、橋を架けたそうだ。当時、城跡の広い敷地は病院や監獄、動物園などに活用され、史跡として観光資源にする考えはなかったようだ。


二の丸堀跡

二の丸堀跡
 上田城二の丸堀は、約646間(1163m)の堀が二の丸をかぎの手状に囲んでいる。昭和3年には上田温電北東線が開通し、電車が走っていたが現在はケヤキ並木遊歩道となっている。上の画像は二の丸橋より本丸に向かって左は左、右は右の堀跡である。


東虎口櫓門
 虎口とは、城の出入り口のこと。昭和24年(1949)に南櫓と北櫓が、また平成6年(1994)に城門が復元され、かつての東虎口櫓門の姿がよみがえった。


北櫓


南櫓


真田石

小田原城址の犬槇
東虎口櫓門右手の石垣にある高さ約2.5m・幅約3mの大石。真田信之(信幸)が松代城移封にあたり父・真田昌幸の形見として持っていこうとしたところ、微動だにしなかったという言い伝えが残っている。 眞田神社の境内に残る直径2m・深さ16.5mの井戸は真田井戸と呼ばれている。この井戸は抜け穴になっており、城北の太郎山麓の砦や上田藩主居館(上田高校敷地)に通じていたという伝説が残っている。


真田神社
 上田城本丸跡に鎮座する真田神社は、真田氏、仙石氏、松平氏という歴代の上田城主を御祭神としている。しかし、もともとは松平家の御先祖をお祀りする御宮であり、松平(しょうへい)神社と称していた。


上田城址本丸跡

鹿角脇立朱塗兜
本丸は東西に伸びた長方形だが、その北東の角のみ鬼門を避けるため欠いた構造をしている。 真田信繁(幸村)公が身に着けたといわれる巨大な鹿角脇立朱塗兜


北櫓(本丸側より)


西櫓
 西櫓は寛永3~5年(1626~1628)にかけて仙石氏によって建てられた、上田城で江戸時代から現存している唯一の建物である。南櫓・北櫓とともに長野県宝に指定されている。


西櫓:尼ヶ淵側より
 上田城南側の崖下にはかつて千曲川の緩やかで深い分流があり、天然の堀となっていた。崖面がもろく崩れやすい性質だったことから築城以来保護対策が行われ、大規模な石垣が設置されていた。この場所を「尼ヶ淵」と称したことから、上田城は別名「尼ヶ淵城」とも呼ばれていた。


南櫓:尼ヶ淵側より


南櫓(手前)と西櫓(奥)


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