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日本百名城

No.19 川越城(かわごえじょう)
別 名 初雁城(はつかりじょう)
城地種類 平城
築城年代 長禄元年(1457)、慶安四年(1651)
築城者 太田道真・道灌、松平信綱 
主要城主 上杉(扇谷)氏、酒井氏、堀田氏、松平氏他
文化財・史跡 県指定史跡 
 天守の現況
関連施設 川越市立博物館
所在地(訪城日) 埼玉県川越市(2017/08/18)

川越城図
 川越城は上杉持朝が古河公方足利成氏に対抗する為、長禄元年(1457)に家臣の太田道真・道灌父子に築城させた。その後、徳川幕府の重鎮川越藩主松平信綱が、川越城の大規模な拡張・整備を行った。


本丸御殿
▼嘉永元年(1848)、時の藩主松平斉典が造営したもので、武家風の落ち着いた造りの川越城唯一の遺構。▼現在に残る川越城本丸御殿は、明治維新後の解体により嘉永元年(1848)に時の藩主松平斉典により再建されたものの一部であり、現存しているのは玄関・大広間と移築復元された家老詰所のみであることを。


櫛形塀
本丸御殿玄関の両脇に配された塀。屋根は瓦葺、櫛形の窓には格子がはめ込まれている。


家老談合模型
 川越藩は、江戸幕府にとって有力な大名であった為に、藩主は、年間を通じて江戸に詰めており、川越藩の政務は、家老を中心として行われていたと考えられ、この部屋が、その中心であった。床の間を背にした3体の人形を使って、家老たちが藩政を論じる場面を再現している。


本丸御殿大廊下

家老詰所
座敷部分を取り巻く廊下 川越城主松平大和守斉典の時代の建造物


川越城中ノ門
  中ノ門堀を復元整備するにあたり、見学広場に説明板とベンチを設け、入口には城を連想させる和風の冠木門を設置した。


川越城中ノ門堀跡
  川越市郭町1丁目付近の住宅の裏には、中ノ門付近の堀跡が現存しており、川越市により堀や門の復元が行われた。中ノ門掘は西大手門側から本丸方向への敵の進入を阻むために巧みに配された堀のひとつであり松平信綱によって造られたものである。


富士見櫓跡
 本丸御殿から南西へ直線で150mの小高い丘が城内で最も高い位置にあたり、この地に三層の富士見櫓があった。川越城に天守はなく、富士見櫓が天守の代わりとなっていた。正確な規模は不明だが江戸末期の記録によれば、長さ八間三尺(15m)(約15メートル)、横八間(14m)あったと記されている。富士見櫓の名前の由来は、文字通り富士山を望めたためである。現在は浅間神社と御嶽神社が建っている。


富士見櫓跡の高台に建つ御嶽神社(左)と浅間神社(右)
 明治12年(1879)、川越城富士見櫓跡に御分霊を奉祀し、木曾御嶽一心講社を設立。昭和17年(1942)には神道大教本局の直属となり、木曾御嶽大教会と名称を変えて現在に至る。敷地内には富士浅間神社、富士稲荷大社も祀られており現在、3名の女性神主がこれらの神社をお守りしている。アニメ『神様はじめました』のモデルにもなり、近年では若い参拝者も増えているそうだ。


三芳野神社
 三芳野神社は、平安時代の初期に成立し、城があった時代には川越城の鎮守として城内に建てられており「お城の天神さま」として親しまれていた。


わらべ唄発祥の所」碑

三芳野神社参道
 三芳野神社の天神さまにお参りするには、川越城の南大手門より入り、田郭門をとおり、富士見櫓を左手に見、さらに天神門をくぐり、東に向う小道を進み、三芳野神社に直進する道をとおってお参りしていた。この細い参道が、童唄「通りゃんせ」の歌詞の発生の地であるといわれ、現在でも静かな環境が保持されている。


太田道灌像

「川越城大手門跡」碑
川越城は、太田道灌親子によって築かれた。 大手門は、市役所前にあった


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