No.17 金山城(かなやまじょう) | |
別 名 | ― |
城地種類 | 山城 |
築城年代 | 文明元年(1469) |
築城者 | 岩松家純 |
主要城主 | 岩松氏、由良氏、小田原北条氏 |
文化財・史跡 | 国指定史跡 |
天守の現況 | ― |
関連施設 | 史跡金山城址ガイダンス施設 |
所在地(訪城日) | 群馬県太田市(2017/07/19) |
金山城鳥観図 |
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太田市のシンボルとして親しまれている標高235.8mの金山全体が金山城である。金山城は、文明元年(1469)に岩松(新田)家純により築かれた。 金山城は、急峻な斜面や岩盤を巧みに利用し、土を掘って土塁を築き、岩盤を削って堀とし、石を積んで石垣を造るなど、金山全体の自然地形を利用しながら「巨大な要塞」を作り上げた。 |
大手虎口(城や曲輪への出入口、攻防の拠点) |
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築城当時、金山城がある上野(こうずけ)国は、越後の上杉氏・甲斐の武田氏・相模の小田原北条氏など強大なな戦国大名がせめぎ合う紛争地帯の最前線であった。この間、十数回もの攻撃を受けたが、その都度守り抜いた堅城として知られている。しかし天正十二年(1584)、小田原北条氏の謀略によりその支配下に入った。天正十八年(1590)、豊臣秀吉が小田原北条氏を攻め落としたことにより、金山城も廃城となった。 |
金山城址碑 |
金山自然公園に車を停め、碑の右の通路から本丸を目指す。駐車場一帯は西城の跡 |
復元された桟道(通行不可) |
敵は堀切で裂断された尾根を迂回し斜面に作られた桟道を渡って攻め入る。この桟道は簡素に壊すことができ、有事の際に桟道を破壊し敵の侵攻を防ぐ。 |
桟道を下から見る |
桟道は、発掘調査で柱穴や横板を置く受けを発見し再現したそうだ。 |
物見台下虎口(馬場下通路)と堀切に架かる土橋(石橋) |
通路の正面には石積みが設けられ、その先を見せないように工夫されている。左側は岩盤を削った堀切で、右側は竪堀となっている。 |
岩を掘削した荒々しい岩肌の堀切 |
物見台 |
馬場下通路の土橋横の岩盤を削った堀切(右側岩の上は物見台)。 | 金山城の周囲がよく見渡せるため、敵の動きを見張りやすい。 |
馬場曲輪 |
馬場曲輪は兵が待機していた曲輪。曲輪の中央部に石組み排水路も整備されている。 |
大手虎口曲輪の石垣群と井戸 |
南曲輪上から北西方面を撮ったもの。井戸は、虎口曲輪で生活していた武士達が使用していたと思われる。井戸底には補強の為の木枠が残っている。 |
月ノ池 |
日ノ池 |
直径7m、深さ2.5mで、上下2段の石垣で囲まれ、石敷き平底で構成された池。 | 山の上では稀な大池であり、金山城の象徴的な場所のひとつである。 |
本丸曲輪 |
本丸曲輪は、本城最高位の郭で、金山城鎮護の神聖な地域であった。源氏の守り神である八幡宮が祀られていた。 |
新田神社 |
本丸跡に明治八年(1875)、新田義貞を祀った「新田神社」が創建された。 |
金山の大ケヤキ |
金山山頂の金山城実城域にあり、樹齢800年、目通り周6.8m、樹高17mの巨木であり金山のシンボルとなっている。 |
史跡金山城跡ガイダンス施設 |
金山城跡の歴史を紹介する歴史学習の場として平成21年(2009)、金山の麓に開館した。建築家・隈研吾氏による設計で、外壁は金山城の石垣をイメージした石板が配置されている。 |