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日本百名城

No.16 箕輪城 
別 名  ―
城地種類 平山城
築城年代 15c.後半~16c.前半、永禄10年(1567)、天正15年(1587)、天正18年(1590)
築城者 長野業尚、武田信玄、北条氏邦、井伊直政 
主要城主 長野氏、武田氏、織田氏、小田原北条氏、徳川氏 
文化財・史跡 国指定史跡 
主な遺構 石垣、土塁、空堀、馬出し、井戸、復元門
関連施設
所在地 群馬県高崎市(2017/09/20)

箕輪城鳥観図


箕輪城跡地図
  箕輪城は、榛名山東南麓の丘陵上を中心にした平山城である。戦国時代の初期に長野氏によって築かれ、後に武田氏・織田氏・北条氏・徳川氏の城となった。巨大な堀と土塁の堅固な土造の城であり、北条氏・武田氏上杉氏が侵攻を繰り返した。


箕輪城の石碑
 天正十八年(1590)、豊臣秀吉の小田原征伐の際に箕輪城は前田利家・上杉景勝連合軍の攻撃により開城した。この年、徳川家康が関東に入封し、箕輪城は12万石をもって井伊直政に与えられた。直政は箕輪城を近代城郭に大改修したが、慶長三年(1598)、高崎城に移封され、それに伴って箕輪城は廃城となり、80余年の歴史に終止符を打った。


箕輪城搦手口
  搦手口は、城の大手口(追手)に対し、裏口に当たる。長野氏時代から北条氏時代までは、当時の情勢から考え、ここが大手口であって、城の南方に城下町がが構成された井伊氏時代に大手口が南側に設けられてから、ここが搦手口となった。




郭馬出西虎口門
   郭馬出しは、50mx30m程の郭で、回りに土手を設け外部から見えない囲いの中に兵を結集し、土手の西側から一挙に打って出る所である。このような大形の馬出しを「郭馬出」という。


二の丸

本丸
縦横約80m規模の曲輪で、出撃の拠点だったといわれている。 南北約100m、東西約70mの規模を持つ曲輪。東側には高い土塁を築いて内部が見えないようにしている。


御前曲輪
  長野氏業は永禄九年(1566)、甲斐国の武田氏に攻められ敗れ自害、箕輪長野氏は滅亡した。この郭は本丸の一部であって、落城の際、城主はここの持仏堂に入って自刃し、一族郎党みなあとを追ったと伝えられている。いわば天守郭が本丸の同一平面に設けられたと考えられる。
 昭和二年に発見された井戸からは多数の五輪塔などの墓石が発見された。


大堀切
 巨大な堀切により城は南北二つに区切られている。一方を失っても、もう片方で戦闘を続けられる「一城別郭の城」となっている。本丸を巡る空堀は幅30~40m、深さ10m~20m。


三の丸石垣
三の丸周囲には、河原石を用いた野面積みの石垣がよく残っている。


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