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日本百名城

No.11 二本松城(にほんまつじょう)
別 名  霞ヶ城、霧ヶ城
城地種類 山城→平山城
築城年代 応永21年(1414)、天正18年(1590)、寛永4年(1627)、寛永20年(1643)
築城者 畠山満泰、蒲生氏郷、加藤明利、丹羽光重 
主要城主 畠山氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏、加藤氏、丹羽氏 
文化財・史跡 国指定史跡、県指定重文、市指定重文
 天守の現況 天守台のみ残る
関連施設 二本松市歴史資料館
所在地(訪城日) 福島県二本松市(2018/12/02)

二本松城址案内図
 二本松城は、標高345mの白旗ヶ峯に畠山満泰が応永21年(1414)に築いた山城がはじまりである。その後、伊達政宗に攻められて畠山氏は滅亡し、蒲生氏が入ると石垣を用いた城郭として改修され、寛永四年(1627)に入った加藤氏により現在の近世城郭の姿に大改修された。
 戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わり、新政府軍に攻められて落城し、建物はすべて焼き払われた。


霞ヶ城址碑
 霞ヶ城公園は、三方が丘陵で囲まれた自然地形を巧みに利活用した要塞堅固な馬蹄型城郭の「二本松城跡」である。


箕輪門櫓


③箕輪門
 箕輪門は、初代藩主・丹羽光重公入府まもなく、城内整備のため御殿とともに最初に建造した櫓門である。主柱材料の樫の巨木は領内箕輪村山王寺山のご神木を用いたのでこの名がある。


③箕輪門(内側より)


⑪本丸石垣
 本丸は、室町時代は奥州探題職・畠山氏の居城。のち会津領時代に蒲生氏、加藤氏により石垣で築城、天守台は造られたが天守閣はできなかった。
 平成になって発掘調査とともに崩落を防ぐため、この石垣は、安土城の石垣を積んだ優れた石工集団・穴太衆(あのうしゅう)とよばれる、優れた石工集団の末裔により、積み直し再建された。


本丸鳥瞰画像:二本松市教育委員会HPより


⑪本丸跡平面図
 平成3年、5ヶ月にわたり実施した発掘調査で、はじめて本丸の形状と規模が判明、すでに崩壊し破損したと考えられていた石垣の、②面から⑥面まで長さ約80mにわたる遺構が検出された。そして、石垣の特徴的な積み方のひとつである慶長期の「穴太積み」や、元和・寛永期の各様式のほか、江戸後半期の様式が確認できた。これらの貴重な石垣を後世に残すため検討を重ね、平成5年、学術調査と合わせて石垣の全面修築・復元工事に着手平成7年に完成した。


天守台と自刃碑:C
天守台は造られたが天守閣はできなかった。天守台脇の碑は、安部井65歳、丹羽66歳、燃え上がる城を眼下に、共に壮絶な最期を遂げた自刃の碑。


天守台からの展望


⑪本丸跡

西櫓台


⑫搦手門跡

⑬日影の井戸
 裏門、今は門台石垣と門柱を立てた左右の礎石が残る。畠山氏あるいは蒲生氏時代の掘立柱による冠木門の柱穴も発掘調査で発見。  千葉県印西市の「月影の井戸」、神奈川県鎌倉市の「星影の井戸」と共に“日本の三井”といわれる。石積みで、深さ14m余り横堀りされているそうだ。


B:藩士自刃の地碑

城内


⑥洗心亭
 城内に唯一残る江戸期の建造物で、木造茅葺・寄棟平屋造りの茶亭。一時、城外への移築により戊辰戦火を免れ、明治40年(1907)に再移築した。


②二本松少年隊群像
 戊辰戦争二本松最大の激戦地・大壇口戦場における少年隊の奮戦姿と、わが子の出陣服を仕立てる母の姿を、日本芸術院会員・彫刻家の橋本堅太郎氏がブロンズ制作、平成八年(1996)建立。


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