江戸城の北の丸があった場所で、江戸や明治時代の歴史的遺構が点在する公園。園内には科学技術館や国立公文書館など文化施設も併設。歴史と文化、緑豊かな自然の森として親しまれ様々な昆虫や樹木が生息する森林公園。 |
北の丸公園 中の池 |
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紅葉の北の丸公園 |
北の丸公園内に残るB29迎撃用高射砲の台座跡 |
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▼田安門【国指定重要文化財】 北の丸公園の一番北側にある門。寛永十三年(1636)に建てられた門で、江戸城の総構えが完成した当時から残る唯一の遺構である。正面の高麗門とその西側に直交する櫓門からなる枡形門。創建年代は明らかではないが、高麗門の扉の釣金具に残る刻銘から寛永十三年(1636)に建てられたようだ。建立以前この付近が田安台と呼ばれていたことからこの名がついた。 |
田安門高麗門 |
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田安門櫓門(枡形内より) |
田安門櫓門(城内より) |
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清水門高麗門 |
▼清水門【国指定重要文化財】 北の丸公園の東側にある門で、寛永元年(1624)に建てられた枡形の城門である。扉釣具の銘には万治元年(1658)とあるが、これは江戸城の総曲輪の大工事を行ったついでにこの門を修復した年であると考えられている。橋を渡り高麗門を入ると南側が開け、渡櫓門をくぐり城内に入る。昔この辺りに清水が湧き出ていたことから門名となった。 宝暦九年(1759)、九代将軍家重の第二子重好をして、この門内に一家を創立させて門名にちなんで清水家と称した。文久三年(1863)の本丸炎上の時には、将軍家茂は一時ここに移っていたといわれている。 |
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清水門高麗門(内側より) |
清水門渡櫓門 |
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北白川宮能久親王騎馬像 |
吉田茂像 |
▼北白川宮能久親王騎馬像 北白川宮能久親王は、弘化四年(1847)、伏見宮邦家親王第九皇子として誕生。安政五年(1858)、輪王寺宮を相続し明治三年(1870)に還俗して伏見宮に復帰、軍籍に就いた。明治28年(1895)には近衛師団長に親補し、近衛師団を率いて台湾に出征、台南にて49歳の若さで薨去。銅像は新海竹太郎により明治36年(1903)に建立された。 ▼吉田茂像 吉田茂は、外務次官や駐英大使など要職を歴任し、欧米諸国に知己を得たことを継起に米英通となったが、親米英派であるとして軍部から目をつけられた。戦後は日本の復興と世界外交復帰に尽力し、サンフランシスコ講和条約の締結などでは、持ち前の行動力で日本の政治・外交を牽引した。銅像は、船越保武により昭和56年(1981)に建立された。 |
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▼大山厳銅像 大山厳は、天保十三年(1842)に薩摩藩士の次男として生まれ、薩英戦争で西欧の近代的な軍備に触発され、砲術家・江川太郎左衛門に師事。日本陸軍に入隊後は西南戦争や続く士族反乱の鎮圧に尽力。日清戦争では第二軍司令官、日露戦争では満州軍総司令官として、日本の勝利に貢献した。銅像は軍服を着た騎乗姿で、新海竹太郎の製作により大正七年(1918)に完成。現在の場所には昭和44年(1969)に移された。 ▼品川弥二郎銅像 品川弥二郎は、天保十四年(1843)長州藩萩に生まれ、吉田松陰の松下村塾で学んだのち、薩長同盟成立や戊辰戦争で活躍した。銅像製作者の本山白雲は、桂浜の坂本龍馬像や霞ヶ関の伊藤博文像などの像を手がけたことでも知られ、品川弥二郎像も代表作の一つである。 |
大山厳銅像 |
品川弥二郎銅像 |