皇居東御苑

所在地  東京都千代田区千代田 1-1
開園時間  9:00〜16:30(±30分:入苑は30分前まで)
休園日  月曜日、金曜日
入園料  無料             イラストマップ
アクセス  地下鉄東京メトロ「大手町」駅 徒歩5分等
問合せ  03-3213-1111       *以上 2016年11月現在

 江戸城の本丸、二の丸、三の丸があった場所。鉄砲百人組が昼夜交替で詰めた「百人番所」、明暦の大火で焼失後に天守の代わりをした「富士見櫓」などが点在。

大手門

大手門前より桔梗濠

大手高麗門
同心番所
  「番所」とは、警備の詰所のことで、百人番所、大番所と同心番所の3つが残っている。城の奥の番所ほど、位の上の役人が詰めていた。ここには同心が詰め主として、登城する大名の供の監視に当っていた。
百人番所
  大手門から大手三の門を抜けたところにあるのが、長さ50mを超える百人番所で、江戸城本丸御殿最大の検問所であった。鉄砲百人組4組(根来組、伊賀組、甲賀組、廿五騎組)が交代で詰めていた。各組とも与力20人、同心100人が配置され、昼夜を問わず警護に当たった。
大番所
   江戸城本丸への最後の番所。他の番所よりも位の高い与力・同心によって警護されていた。大名や旗本もここからは乗り物から降りて歩いて登城した。

同心番所

百人番所 左奥の石垣が大手三の門

大番所

富士見櫓
富士見櫓

 中雀門を入って左手の本丸南端に位置する三重の櫓。櫓の高さは約16m、どこからみても同じような形に見えることから「八方正面の櫓」とも呼ばれている。明暦三年(1657)の大火で天守閣が焼失した後は、その代わをしたと伝えられる。櫓の上からは富士山、秩父連山や筑波山、東京湾などを臨むことができたそうだ。
松之大廊下跡

  松之大廊下は、江戸城内にあった大廊下のひとつ。本丸御殿の大広間から将軍との対面所である白書院に至る全長約50m、幅4mほどの畳敷の廊下。廊下に沿った襖に松と千鳥の絵が描かれていたことから松之大廊下と称された。
  ここが「忠臣蔵」で有名な元禄十四年(1701)3月14日、赤穂藩主の浅野匠頭長矩が高家衆筆頭の吉良上野介義央に斬りかかる刃傷事件が起きた場所である。

「松之大廊下跡」碑

富士見多門(蓮池濠外より)
富士見多聞
  多聞とは、防御と装飾とを兼ねた長屋作りの武器庫で、本丸には十五棟の多聞が有ったが、現在残っているのは、この富士見多聞だけ。中には鉄砲や弓矢が納められていた。
 蓮池濠から富士見多門までの石垣は、高さ約20mにもなる長大な石垣で、東・南・西の三面いずれも激しく屈折している。石垣下と石垣塁壁に取り着いた敵を攻撃する際、死角をなくすための工夫だといわれている。
石室
 富士見多聞北側の蓮池濠沿いにある石作りの蔵。入り口には扉を取り付けた穴があり、内部は20uほどの広さとなっている。伊豆半島産の安山岩(伊豆石)の切石で、隙間もないほどキッチリと壁が造られている。火災などの際に貴重品などを避難させた蔵と考えられている。

富士見多門内部

石室
江戸城天守閣跡

   江戸城の天守は、慶長十一年(1606)の家康、元和八年(1622)の秀忠、寛永十五年(1638)の家光と将軍の代替わりごとに築き直され、将軍の権力の象徴であった。寛永の天守は、寛永十五年、三代将軍家光のとき、元和の天守台(現存の天守台)に建てたもので「江戸図屏風」によると金の鯱をのせた五層の天守閣だった。この寛永の天守は、明暦三年(1657)の火災で焼け落ち、翌年に加賀藩前田家の普請により高さ18mの花崗岩でできた天守台が築かれた。これが現在残る天守台だが、城下の復興を優先すべく天守閣は再建されなかった。現在、東西約41m、南北約45m、高さ11mの石積みが残っている。

江戸城天守台

北桔橋門
北桔橋門(きたはねばし)

  内濠(平川濠・乾濠)に架かり、皇居東御苑の北側にある。江戸城北桔橋門の橋で、有事に備えて橋が跳ね上がる仕組みになっていた。太田道灌の時代には、この付近が城の大手(正面)であったと伝わる。江戸時代は門を入った所に江戸城本丸の天守閣があった。現在は、冠木門と橋だけが残っている。
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