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続・日本百名城

No.125 小机城(こづくえじょう)
別 名 飯田城、根古屋城
城地種類 平山城
築城年代 15世紀以前
築城者 不明
主要城主 笠原氏(城代)、北条氏
文化財・史跡
 天守の現況
関連施設 横浜市城郷小机地区センター
所在地(訪城日) 神奈川県横浜市(2018/10/22)

小机城想定図
  小机城は、永享の乱(1438~1439年)の頃に関東管領上杉氏によって築城されたとされるが、正確な築城年代は分かっていない。この城が歴史に登場したのは、長尾景春の乱のうち文明十年(1478)に起きた攻守戦である。このとき景春の味方をした豊嶋氏が小机城に立てこもり、敵方の太田道灌が攻撃をし、約二ヶ月をかけて落城させたとされる。
 その後は廃城となったが、この地域が後北条氏の勢力下に入ると北条氏綱の手により修復され、城下が整備された。豊臣秀吉による小田原征伐の際には、無傷のまま落城した。その後、徳川家康の関東入府のときに廃城とされた。


住宅地を抜けたところが小机城址の入り口である


根古谷広場
 城跡入口から石段を少し上ると根古谷広場に出る。トイレとイス・テーブルが置かれた休憩所でとなっている。▼根古谷は、城の麓にあった城主の館や家臣の屋敷地である。城主は平時には麓に居住し、戦闘時には城に詰めるという形は中世後期の全国の山城で見られた形態である。


城跡に向かう竹林の道


本丸広場への道(二の丸広場との分岐)


本丸広場入口の冠木門
▼本丸は一城の中心になり、主将のいる所で、合戦中には、戦闘の指揮が置かれる。縄張りを行う時、最も防備に主点が注がれる。
▼註:調査実績が少なく、現在地が本丸跡とは断定できないとのこと。


本丸広場から二の丸広場への鬱蒼とした竹林の道


本丸を囲む空堀と土塁
土塁は堀と共に城の防備や攻撃に重要な施設で、堀を掘った土で築き上げた防備壁を言う。


二の丸付近の空堀と土塁
 堀は土塁と共に城の守備・攻撃の為の重要な施設で、人工的に作られるものや地形を利用したものがある。水をはらない堀を空堀とい言い、水をはるために堀勾配のゆるい水堀よりも堅固な施設と言える。


二の丸広場
▼二の丸は、本丸を直接守備する役割があり、縄張りのとき、本丸の守備や防備にも主点がそそがれる。▼註:資料不測のため、この地が明確に二の丸とは断定できないとのこと。


矢倉(櫓)跡
 矢倉(櫓)は、城や館の門の上、あるいは敷地内に設けた物見・防戦のための高楼。近世の城郭では、一層から四層の塗込造りの建物が多く、城内の要所、城壁や城門の上に設けた。


井楼(せいろう)跡
敵陣を偵察するために材木を井桁に組んで作るやぐら。


櫓台跡
 一城には、数か所の櫓台が置かれている。小机城では高い所に位置するこの場所は本丸と二ノ丸をつなぐとともに物見櫓があったと推定される。城域全体を監視するとともに侵入してきた敵に対して側面攻撃を行う、防御施設としての役割も担っていた。


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