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続・日本百名城

No.122 大多喜城(おおたきじょう)
別 名 小田喜城(おたきじょう)
城地種類 平山城
築城年代 16世紀前半
築城者 真里谷(武田)信清
主要城主 本多氏、松平氏 
文化財・史跡 県指定史跡 
 天守の現況 模擬復興(1975)
関連施設 石垣山一夜城歴史公園
所在地(訪城日) 千葉県夷隅郡大多喜町(2018/12/14)

大多喜城鳥観図:ジオラマ
 中世は、小田喜の城と呼ばれていた大多喜城は、16世紀前半に武田氏の一族、真里谷武田信清が築城したといわれる。天文期(1532~1555)に安房の里見氏の重臣であった正木氏が入り、以後上総正木宗家の居城として発展した。
 その後、天正18年(1590)、北条氏が豊臣秀吉によって滅ぼされると、徳川家康が江戸城に入り、大多喜城には徳川四天王の猛将・本多忠勝が入城した。元禄16年(1703)に松平氏が入城。以後、松平氏は9代続き明治の廃藩置県を迎えた。


大多喜城天守閣:昭和50年(1975)模擬復興
 徳川四天王のひとり、本多忠勝を初代城主とする 近世大多喜城の本丸跡に城郭様式で建設した博物館。〔房総の城と城下町〕をテーマに刀や鎧、衣装等を展示している。


本丸土塁
  土塁は堀と共に城を守る備えであり堀と組み合わされて造る。堀を掘り上げた土で、城内が見えないように土塁を造る。勾配は、敵が入りにくいように、城の外側を急勾配にする。大多喜城では、本丸跡の周囲に、土塁が見られる。


本丸土塀


本丸跡より二の丸跡を見下ろす(大多喜高校グランド)


大多喜城二の丸公園
休憩所のある公園。奥の階段の先には、鐘撞き堂がある。


二の丸大井戸
 大喜多城内にあった二十数個の井戸の一つ。初代城主・本田忠勝の時に掘られたといわれ周囲約11m、深さ20mで、日本で最も大きな井戸の一つだそうだ。当時は、8個の滑車と16個のつるべ桶があり、水が尽きることなく湧き出ることから「底知らずの井戸」と呼ばれていた。


薬医門
  明治のはじめに城が取り壊されると、この門も城下の民家に払い下げられた。その後、学校の門として再びこの地に移された。現在に残された大多喜城ただ一つの建物である。


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