宿
中山道遊山旅


2016/05/13




宿
落合宿 1里=3.9Km 中津川宿



落合宿
  木曽11宿を出て「美濃」に入り、最初の宿場が落合宿。江戸から82里12町(323km)、京から52里9町(205km)の位置にある。日本橋から数えて44番目の宿場町である。幕末頃の記録には、宿の長さ390m、家数は75軒とある。

  宿入口の枡形を抜けると寛政四年(1792)設置の「常夜燈」が残っている。ここからが宿場で、数分も行くとりっぱな門構えの本陣がある。この門は、文化十二年(1815)の大火後、見舞として加賀藩から贈られたものだそうだ。門前に「明治天皇落合御小休所」碑が立っている。

落合宿高札場

古民家

落合宿本陣

大釜
大釜
 本陣の少し先に「大釜」が展示されている。天草(寒天の原料)を煮るときに使用されたもので口径1.5m、容量は1000Lを超え「落合宿助け合い大釜」と命名されている。
善昌寺
 大釜の付近に古民家も見られ、その先に善昌寺がある。創建は慶長五年(1600)、明治時代に寺の一部が道路となり、境内の松はそのまま残され「路上の松」と称されるようになった。この松は、創建当時の山門を覆っていたことから「門冠の松」とも呼ばれている。道路拡張工事で根が痛めつけられたためか樹齢450年の割には小振りな古木である。

古民家

善昌寺と門冠の松
落合五郎城跡

 城跡は、木曾義仲の家臣で四天王のひとりと言われた落合五郎兼行の館跡。美濃の勢力に備えたものが、義仲と共に討ち死にした兄の弔い合戦に臨んだがあえなく戦死。館跡は「オンガラ(語源は伽藍)」と呼ばれ、地元では「おがらん様」と親しまれているとのこと。

落合五郎城跡(おがらん様).

水戸藩浪士 熊谷三郎の墓(西山墓地)
水戸浪士 熊谷三郎の墓

 幕末に水戸藩の一派「天狗党」が、攘夷貫徹を訴え京都をめざし落合宿を通過した折、党紀に違反した熊谷三郎が惨殺された。これを哀れんだ地元の人々により西山墓地に葬り墓碑を建て供養した。
与坂立場

 木曽路を経て平地に出たのだが、けっこうきつい上りが延々と続く、登り詰めたところが与坂の立場。茶屋があり、米粉の餅に黒砂糖を煮詰めて塗った三文餅が売られていたという。その前には、弘法大師三十六番札所の地蔵堂もあった。また、この辺りに白木(木曽五木など) を取り締まる与坂御番所も置かれていたそうだ。

延々と続く上り坂

与坂の立場

弘法大師三十六番札所

子野の一里塚
子野の一里塚

 立場を過ぎると一転、きつい下りが続く。下りきって三五沢橋を渡ると再び上り坂となるがその左に子野の一里塚が残っている。
覚明神社

 一里塚からはまた上り坂、上りきったところに覚明神社はある。覚明行者とは天明年間(1781〜1789)に白装束で御嶽山への精進登山を一般人に広めたことに由来する神社だそうだ。

覚明神社

子野の地蔵堂石仏群
子野の地蔵堂石仏群

 神社を後にするとまた厳しい下り坂、木曽路と同様の厳しい上り下りが連続している。子野橋を渡ると、緩やかな上り坂になり、左手の小高い場所に枝垂桜の大木がありその周囲に庚申塚や地蔵、観音像などが数多く祀られている。昔このあたりに地蔵堂があったとから「子野の地蔵堂石仏群」と呼ばれている。

石仏群

地蔵堂
尾州白木改番所

 地蔵堂橋を渡り、地下道で国道19号線を横断する。渡った先の国道端に可愛らしい道祖神が置かれている。工事に伴いここに移されたのだろう。少し先には秋葉大権現の常夜燈や双胎道祖神が置かれている。道祖神の背後に童謡「めだかの学校」の歌詞が書かれた大きな看板が立っているが何のことやら分からない。この少し先が「尾州白木改番所」だ。木曽路を抜けたこんな所にも番所を構え、木曽檜の持ち出しを見張っていたとは驚きだ。

地下道で国道19号線横断

双胎道祖神

秋葉大権現常夜灯

双胎道祖神の後ろに「めだかの学校」の歌詞看板

尾州白木改番所

旭ヶ丘公園
石仏三井寺観音

 番所跡を過ぎると唐突にポツリと「たこ焼き店」がある。1パック買って前の旭ヶ丘公園で食す。公園には「石仏三井寺観音」が安置されている。昔から土地の人は「歯観音」といって虫歯の痛みを治す仏と伝えられ、今でも参拝者がいるとのこと。また安政二年(1773)に建立された芭蕉句碑があり「山路来てなにやらゆかしすみれ草」と彫られている。

石仏三井寺観音

芭蕉句碑
中津川宿高札場

 芭蕉句碑の先の階段を下り横断歩道橋を渡る戸中津川宿入口で、「高札場跡」や「二十三夜塔」などが残っている。

中津川宿 高札場
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