宿
中山道遊山旅


2016/05/13





宿
馬籠宿 1里5丁21間=4.84Km 落合宿



馬籠宿
 「馬籠宿」は峠の途中の宿なので大きな宿場ではなかったが、島崎藤村の小説によって一躍有名になり、今や「妻籠宿」と共に木曽を代表する観光地となっている。
 馬籠宿は下り坂の両側に整然と集落が立ち並んでいる。江戸時代のまゝ、まるで時代劇の舞台を見るようだ。しかしここは明治二四年(1891)の大火で大半が焼かれてしまい、明治になってからの建物がほとんどだそうだ。

高札場を振り返る

馬籠宿家並み

馬籠宿ふる里の家

馬籠脇本陣史料館
馬籠脇本陣史料館
 馬籠宿を少し下ると右手に脇本陣史料館、数軒先には藤村記念館がある。ここは藤村の生家だった「馬籠本陣(島崎家)」の跡である。
 さらに少し下った左側に「清水屋資料館」がある。馬籠宿の組頭を務めていた家で、当時の馬籠宿の人々の生活を知るうえで貴重な資料が多い。

藤村記念館(本陣跡)

馬籠茶屋

馬籠宿 いずはら

清水屋資料館
枡形
  馬籠宿の坂の長さは600mほど、出口付近(京都寄り)に設けられた枡形は、戦乱時に軍勢の通過を妨害するため、宿場の要衝に設けたクランクのこと。石畳が90度折れ曲がり、急な階段になっている。
  「坂の家」の前の左にカーブする道は新道。枡形の道は真っ直ぐ階段を下りる道。階段下には風情ある「水車小屋」があり、突き当たって左に曲がり次の枡形に阿弥陀堂がある。

枡形:坂の家

水車小屋

阿弥陀堂

石屋坂
馬籠城址
 馬籠宿を後にし石屋坂を下って行くと久しぶりの上り坂、右手に「丸山の坂」の道標がある。この辺りには室町時代から馬籠城(砦)があった。戦国時代は武田信玄の領地であったがその後、豊臣秀吉が木曽防衛のため築かせた丸山城(馬籠城)の跡だ。
 城址のすぐ先に諏訪神社があり、島崎藤村の父である馬籠宿17代当主だった島崎正樹碑がある。

丸山の坂、馬籠城跡

諏訪神社参道
正岡子規句碑
 神社からはゆるやかな下り坂が続き、趣ある民宿前を経て前方に美濃平野を見ながらどんどん下る。正岡子規の句碑が立つ、見晴のよい東屋のある休憩所に出たのでひと休み。「桑の実の 木曽路出づれば 穂麦かな 子規」

街道時代風の民家

前方に美濃平野

正岡子規句碑

美濃平野の彼方に恵那山を望む
新茶屋の一里塚
 休憩所を後にすると急な下り坂、恵那山の眺めがすばらしい。15年前に頂を踏んだことを思い出す。新茶屋の集落の古民家の先に新茶屋の一里塚古跡碑が立っている。平成六年(1994) 失われた一里塚を整備し右に松、左に榎を植えた一里塚を復元した。

古民家

一里塚古跡(右端に復元後の松)
十曲峠の石畳
 新茶屋を出ると木曽路は終わる。この先が「十曲峠(つづらおれとうげ)」と呼ばれていた難所で標高500m、急な坂道を大雨から守るために自然石を敷き詰めて造られた。一部失われた石畳も復元し、鬱蒼とした森林の中に当時の街道の雰囲気が残りる石畳は、「落合の石畳」として史蹟に指定されている。

落合の石畳

落合の石畳

落合の石畳

医王寺本堂
医王寺
 石畳道の傾斜が緩むと十曲峠も終わり、医王寺が見えてくる。かつては山中薬師として知られたところである。ここの住職が傷ついた狐を助けたところ、そのお礼にと狐から教えられた「狐膏薬」がここの名物であった。
 境内の枝垂桜は、県下随一の銘木と云われていたが、伊勢湾台風で倒れ今は二代目。しかし、親木に勝るとも劣らぬ見事な花をつけるそうだ。境内には芭蕉句碑もある。「梅が香に のっと日の出る 山路かな ばせう」

枝垂桜

芭蕉句碑

美濃平野と恵那山の山並み
落合川
 医王寺を出ると眼下には落合宿の家並み、彼方には恵那山が望める。再び急な下り坂は厳しいが上りよりはましだ。落合川に架かる下桁橋を渡ると、激流の彼方に恵那山が美しい。ほどなく高札場跡の交差点、ここが落合宿の入口である。

下桁橋

落合川

高札場付近の分岐
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