和 田 宿 |
2013/06/04(火) 2013/07/01(月) |
洗 馬 宿 |
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下諏訪宿 | 2里32丁=11.25Km | 塩尻宿 |
下諏訪宿入口付近 |
下諏訪宿 下諏訪宿は、中山道唯一の温泉場である。共に難所の和田峠と塩尻峠の間にあり旅人にとって格好の休憩地だった。 宿場の中で甲州街道が分岐する追分でもあり、本陣1、脇本陣2、旅籠屋40軒と大きな宿場だった。 一里塚の少し先が宿場入口で800mほど町並みが続いていたとのこと。 |
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茶屋・松屋 宿場に入ると今井邦子文学館がある。茶屋・松屋の建物を復元したものだ。今井邦子は女流短歌誌「明日香」の創始者で四国生まれ、2歳で下諏訪町の祖父母の家に引き取られた。結婚、出産を経てアララギ歌人の島木赤彦と出会い、短歌の新境地を開いたとされている。 |
茶屋《松屋》:今井邦子文学館 |
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来迎寺 |
来迎寺 宿入口から坂を少し上った左に天文十年(1541)創建の来迎寺がある。境内には《和泉式部供養塔》があり、傍らに《和泉式部歌碑》も据えられている。 あらさら無 この世のほか能 於も悲てに 似ま飛とたひの 阿うこともか那 (あらざらむ この世のほかの 思い出に 今ひとたびの 逢うこともかな) |
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湯の町 中世より、この地は湯の町として知られ、街道の道端に高温の温泉が自噴し、多くの旅人が疲れを癒した温泉場で、名湯として広く知られてきた。今でも街道筋のあちこちに、湯を出しっぱなしにした蛇口が見受けられる。風呂桶を置けば、源泉掛け流しの温泉そのものだ。 |
熱湯が垂れ流されている蛇口 |
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青塚古墳 |
青塚古墳 中山道を挟み来迎寺の反対側に、諏訪地方唯一の前方後円墳・青塚古墳がある。7世紀末〜8世紀の築造と考えられ長野県指定史跡となっている。墳丘は欅の大木で守られている。 岩波家本陣跡 古墳から中山道に戻り少し行くと下諏訪宿の中心部となり本陣跡がある。当時ここの庭園は中山道一の名園としても有名だったそうだ。 |
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本陣跡 |
錦の湯跡::問屋場跡、甲州街道・中山道追分 |
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錦の湯 本陣の少し先に錦乃湯がある。江戸時代、旅籠に温泉は引かれておらず、宿泊客も一般開放されていたこの錦の湯に浸かった。この時代、他の湯は地元の人以外は入れず、温泉は混浴が普通だったそうだ。 甲州街道追分 錦の湯地点で中山道は直角に右に曲がっている。角に脇本陣跡の《まるや》があり、向かいは旅籠だった《桔梗屋》である。直進する道は甲州街道で、この地点が終点である。 |
錦の湯前で直角に曲がった中山道 |
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旧旅籠《桔梗屋》 |
旧脇本陣《まるや》 |
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神楽殿 |
諏訪大社下社 秋宮 錦の湯前を直進(甲州街道)するとすぐに諏訪大社下社・秋宮に出る。諏訪大社は、諏訪湖を挟んで二社・四宮が鎮座している。創建年代は不明だが、日本最古の神社の1つといわれている。下社はイチイの御神木を御神体としているので本殿は無い。 諏訪大社下社秋宮境内には、龍の口から温泉がこんこんと湧く御神湯がありまた、樹齢700年の《根入りの杉》と呼ばれる夜泣きに霊験ある杉もある。秋宮社叢に欅の巨木もある。《専女の欅》と呼ばれる樹齢1000年の下諏訪町指定の天然記念物である。 錦の湯前の《甲州街道中山道合流之地》碑まで戻り、中山道の旅を続ける。 |
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根入りの杉 |
龍の口 |
専女の欅 |
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歴史民族資料館 桔梗屋から50mほど先に、旅籠屋当時の建物である《歴史民族資料館》がある。その先にも街道時代の雰囲気ある建物や湯口が散見される。国道に合流する地点が宿場の出口である。 |
歴史民俗資料館 |
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源泉掛け流し(犬猫用露天風呂な分けないか) |
宿場出口:正面は国道20号 |
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魁塚 |
魁塚 国道をしばらく行き《下諏訪駅前》交差点の先で旧道に入るとほどなく《魁塚》がある。 慶応四年(1868)正月、東山道総督軍先鋒嚮導赤報隊は、年貢半減を掲げて進んだが、その間に朝議が一変し赤報隊は官軍をかたる賊徒として捕われ、ここ諏訪の地にて斬首された。かつての同志であった人達など有志により明治三年(1870)建立された塚である。 |
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魁塚から少し行くと御柱に囲まれた道祖神がある。その先でT字路にぶつかる。「さて、どっちへ?」と思ったら、正面の幅1mもない路地に《中山道》の道標を見る。路地を抜けると砥川の土手にぶつかる。土手沿いに少し行って富士見橋を渡る。 | 御柱に囲まれた道祖神 |
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幅1mもない路地 |
砥川の土手に出る |
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旧渡辺家住宅 |
旧渡辺家住宅 中山道から少し離れた武家住宅である渡辺家は、代々高島藩主に仕えた散居武士(城下町ではなく在郷の村々に住んだ藩士)の家である。創築は18世紀中頃とされ、その後19世紀中頃に改築されているが、現存する武士の家として、全国的にも貴重なものであり、長野県宝に指定されてる。 また、この家からは3人の大臣が生まれているそうだ。 |
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平福寺 寺の創建は古く、弘法大師の密教を擁護する道場であったと、伝えられている。天正年中(1573年以降)に、織田の兵火のため焼かれ、礎石を残すのみとなった。その後慶長(1596年以降)の末年洪水で流され、横河川左岸の地を捨て、現在地に移転した。 |
平福寺 |
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伊那街道道標 |
双体道祖神 |
平福寺の先の十字路角に道標が立っている。“右中仙道 左いなみち”と刻まれた伊那街道の道標で寛政三年(1791)に設けられたものだ。 道標の少し先に、日本橋から数えて56番目の東堀一里塚跡碑がある。この他道端には、道祖神や天満宮などの石塔が散見される。 正面に塩尻峠の山並みを見ながら行くと横河川を渡る。橋の上から左を見ると諏訪湖を望むことが出来る。 |
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東堀一里塚跡碑 |
横河川:正面に諏訪湖 |
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茶屋本陣 横河川を渡り15分ほど行くと右手に堂々たる門構えの茶屋本陣だった今井家がある。江戸末期の本棟造り、玄関などが残されている。塩尻峠を越えてきた多くの大名や皇女和宮そして明治天皇もここで小休している。 茶屋本陣の向かいは、米穀の不正搬出などを取り締まる穀留番所跡碑や明治天皇今井御膳水碑が立っている。 |
茶屋本陣今井家門構え |
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茶屋本陣今井家 |
穀留番所跡 |
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石船観音堂への石段 |
石船観音 茶屋本陣から長野自動車道 岡谷ICに沿って15分ほど進むと石船観音の石段下に出る。馬頭観音が船の形の石の台座に乗っていることから《石船観音》と呼ばれているそうだ。当時ここは足腰に御利益がある観音として人気があり、険しい峠を控えていることもあり参拝者が多かったという。 長い石段を上るとお堂があり松葉杖や草鞋が供えられている。今でも、足腰に御利益があるのだろう。境内には小さな滝も見られる。 |
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石船観音堂:松葉杖や草鞋が供えられている |
境内の小さな滝と水神碑 |
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塩尻峠 石船観音から塩尻峠への本格的な上りとなる。途中、昔から有名だったという大岩の前を通り抜け、20分ほど上ると塩尻峠に着く。“熊出没注意 岡谷市”と書かれた警告板が気になる。展望台に上ると諏訪湖が一望できる。 富士浅間社 江戸時代、松本領・諏訪領との郡境の宮として石祠を奉祀した。 |
大岩 |
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塩尻峠富士浅間社 |
塩尻峠展望台より諏訪湖を望む |
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茶屋本陣跡 |
夜通道 峠から数分下ると茶屋本陣跡、さらに5分ほど下ると2体のお地蔵様が祀られている。傍らの標柱に《夜通道》とあり、その謂れが記されている。 峠を隔てた村娘が、岡谷の若者に恋をした。娘は、毎夜若者のもとに通ってくる。若い娘が夜一人で峠を越えてくることに疑問を持った若者はある夜、藪に隠れて娘を見た。その様子はとても普通の人間には見えず、若者は恐ろしくなり逃げてしまったとのこと。 夜通道から5分ほど下ると57番目の《東山一里塚》がある。 |
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夜通道のお地蔵さん |
東山一里塚 |
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首塚 塩尻峠を下り高速道を越えると柿沢集落に入る。ここには街道から少し離れたところに《首塚、胴塚》がある。天文十七年(1548)、武田信玄と小笠原長時が戦った《塩尻合戦》の死者を葬った跡だ。大勝利した武田軍は、この地で首実検を行い、小笠原方戦死者の死体を打ち捨てたまま引き上げた。これを哀れに思った村人が、戦死者を埋葬した塚が首塚と胴塚である。 首塚から中山道に戻ると、道をまたいだ鳥居があるが意味は分からない。 |
柿沢集落に向かう |
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首塚 |
中山道をまたぎ鳥居が…… |
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永福寺観音堂 |
永福寺観音堂 木曽義仲ゆかり寺である。ここに、義仲の子孫が元禄十五年(1702)に伽藍と朝日観音堂を建立。義仲が信仰した馬頭観世音が本尊としておさめられていた。観音堂は後年焼失してしまうが、安政二年(1855)に再建された。入母屋造り茅葺屋根が美しい。正面にある山門(仁王門)は、明治二九年に建てられたもので三間一戸、入母屋、桟瓦葺き、総欅、楼門形式である。 永福寺から数分、仲町信号で国道と合流。角に“是より西中山道 塩尻宿”と刻まれた石柱が立っている。 《塩尻宿〜洗馬宿》に続く |
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永福寺仁王門 |
永福寺 石塔群 |
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