宿
中山道遊山旅


2012/06/04(火)




宿
和田宿 5里18丁=21.5Km 下諏訪宿




追手川橋を渡ると和田宿の中心街

 追手川を渡ると和田宿の中心街となる。橋のすぐ右手に古い家が残っている。かつての旅籠宿 河内屋で今は、歴史の道資料館となっている。残念ながら、休館日(月曜と12/1〜3/31)で内部を見ることは出来ない。

        問屋跡                  名主羽田家跡            名主役宅(現:食堂かあちゃん家)
和田宿本陣
  問屋跡や名主宅など古い建物が建つ街並みをしばらく行くと右手に平入出桁の門付旅籠型の代表的な遺構があり、地元料理食堂《かあちゃん家》として利用されている。道路を挟み《かあちゃん家》の向かい側に皇女和宮が宿泊した和田宿本陣がある。

和田宿本陣

石合
和田宿中心部
  本陣付近が和田宿の中心部である。本陣の斜め向かいにある《石合》は、典型的な旅籠屋の外観を今に伝えている。その隣は、翠川家脇本陣で上田、小県地方唯一の脇本陣遺構とのこと。公開はしていないが上段の間、二の間、脇上段など当時の部屋がそのまま残り大変貴重なものだそうだ。脇本陣の向かいには《米屋家》跡を改築し歴史資料館を兼ねた休憩所となっている。

翠川家脇本陣

米屋家
本亭旅館
  脇本陣の向かいに《本亭旅館》がある。何軒も残っている出格子造りの家の中でひときわ目立つ旅館で、中山道を旅する人に大変人気のあった宿だったが昨年(2012)、営業を停止したとのこと。これにより和田宿での宿泊は不可となってしまった。

本亭旅館

高札場跡
 本亭から5分ほどで高札場跡を経て宿外れとなる。さらに10分ほど行くと国道142号を横断する。この角に一里塚(江戸から50里)跡がある。中山道は国道と依田川の間を行く。茅葺屋根のバス待合所や狭い道幅の家並みは街道当時を思い起こさせる。

大出バス停

依田川と国道142号の間の旧中山道
  国道と合流しゆるやかに上って行く。4軒のドライブインが連なる国道を小一時間ほど歩かねばならないひたすら忍耐の道である。
ドライブイン杉の屋

唐沢一里塚
唐沢一里塚
 依田川を渡った先で国道と分かれ街道らしい路となる。分岐から十数分で日本橋から51番目の唐沢一里塚に着く。この塚は、中山道の一部路線変更で山中に取り残されたもので、天保二年(1831)の絵図ではすでに路線から外れていたとのこと。すでに塚上の木は失われているが左右の塚がほぼ原形をとどめている珍しい一里塚である。 
男女倉口
  一里塚の少し先でまた、国道に合流する。観音沢バス停を経て本日のゴール 男女倉口バス停に14:04に到着する。長久保宿へ戻るバスは、14:13と記されている。次は17:00発で3時間近く待たねばならない。間に合って良かった。

男女倉口バス停

中山道 和田峠登山口
和田峠登山口
 翌日8:10、長久保宿からバスで男女倉口まで戻る。バス停の少し先で有料道路が左に分岐し、国道は大きくUカーブ。“これより和田峠、急カーブ、急坂路注意”の道標が掛かっている。このカーブの突先から中山道が分岐し、和田峠登山口となっている。ここからは旧中山道が昔のままに残っている。

 若葉に覆われた草生す中山道歩きは快適そのもの。5分ほど行くと休憩舎、その隣に三十三体観音が安置されている。難所の峠を往来する人馬の無事を祈って祀られたらしい。

休憩舎

三十三体観音
  この辺りは昔ながらの中山道が残っているとのこと、道端には、クリンソウ、ヒトリシズカ、マムシグサなど初夏の花が咲くのどかな路である。予想していたよりもずっと歩き易い路である。小さな沢を何度も横切り、ゆるやかに上って行く。
クリンソウ咲く中山道

接待茶屋
接待茶屋
  国道に出たところが接待茶屋跡、無料で人馬が休憩できたとのこと。碓氷峠と共に江戸の豪商の寄付によりこの茶屋は運営されていたそうだ。復元されたのであろう茶屋の中に昔ながらの竃がポツンと置かれている。

 茶屋の前には、湧き水が汲める水場があり、次々とトラック運転手さんがやって来て20Lポリタンに湧水を汲んでいた。運転手さんによると、日に当てなければ半年は腐らないそうで、ここを通るたびに汲んでいくそうだ。
石畳
  接待茶屋跡でいったん国道に出た旧中山道は、すぐに旧中山道が分岐する。再び快適な旧街道を20分ほど行くと廃墟に近い休憩舎、この辺りからは石畳の路となり歩き難くなる。

石畳

広原一里塚
広原一里塚
  沢沿いの路を右岸・左岸と渡り返しながらゆるやかに上って行くと広原一里塚(日本橋から52里)に着く。かつてこの辺りは、笹と萱が生い茂る原であったそうで、降雪期には一面雪の原と化し道も埋もれ、この一理塚が旅人のよい道しるべとなったそうだ。
  一里塚を後にすると湿原を利用しての野宿所(キャンプ場)、さらにロッジ和田峠を経て10分ほどで国道に出ると目の前にドライブイン東餅屋が現れる。かつてはここに5軒の茶屋があったそうだが今は、この一軒を残すのみだという。
  9:40 店はまだ開いていない。外でひと休みしていると、親父さんが出てきて「やってますよ」と声を掛けてくれた。

東餅屋

東餅屋の店内とおやじさん
東餅屋
  話好きの親父さんでいろいろと教えてくれる。昨日、濱田屋さんに泊まったというと、「濱田屋の女将さんもコーヒーを飲みにときどき来てくれる」と言う。「年間5000人ものハイカーが行き交う」とも言ってました。

 力餅2つに野沢菜と豆を挽いて入れてくれたコーヒーで500円。甘さ控えめで、わずかに塩気が利いた餅で、コーヒーとの相性も良かったです。
  20分以上も話し込み東餅屋を後にする。直ぐに国道と分かれ、森の路をしばらく行くと美ヶ原に至る有料道路のビーナスラインをパイプ型のトンネルでくぐり抜ける。さらに何度かビーナスラインを横断し急坂をひと登り、思っていたより楽に和田峠に着いた。男女倉口バス停から2時間15分ほどの快適なハイキングであった。
力餅セット

パイプトンネル

和田峠(古峠)
和田峠(古峠)
 広々した明るい峠である。明治9年、東餅屋から西餅屋へ通じる紅葉橋新道が開通しこの峠を通る人はほとんどなくなり古峠の名を残すのみと案内板に記されている。



  和田峠の標高は1531m、中山道で一番標高の高い峠である。あとは下諏訪に向かって下るだけだが、険しいことで知られた名うての難所である。しかし、峠を越えてしばらくはこれまでと同様とても歩き易い路が続き拍子抜けする。
峠より下諏訪側の中山道

肩幅ほどしかない険路が続く
  下りはじめて数分もすると、肩幅ほどしかない狭くガレた険路となる。崖状の路は昔も今もあまり変わっていないとのことだが、こんな悪路を皇女和宮一行が通ったとは信じがたいほどだ。噂通りの難所だが、10mくらい毎に白杭が設けられており、たとえ濃霧になっても路に迷う恐れがないのはありがたい。
石小屋跡
  峠から15分ほど下ると石小屋跡、急坂が続く難所で雨や雷、風雪を防ぐための避難小屋だったそうである。石小屋は安政二年(1855)に造られ、高さ2mの石積みをし片屋根を掛けたもので長さ55mという大きいものだったと案内板に記載されている。特に、雪が3mも積もる冬には、無くてはならない避難所だったのだろう。

石小屋跡

旧国道を横断する
  再び、白杭の打たれた狭い急坂を下って行くと石小屋から20分ほどで旧国道を横断する。標柱に“諏訪大社秋宮 11.1km”と記されている。和田宿と下諏訪宿のおおよそ中間地点に当たる。
西餅屋跡
  国道を横切った先も、相変わらず狭くて急坂の笹で覆われた石ゴロの歩き難い路だ。再び旧国道を横切りしばらく下って行くと西餅屋茶屋跡に出る。かつては4軒の茶屋があり東餅屋同様たいへん賑わっていたそうだが、明治に入って交通機関が整備されるとともに歩く人は激減、寂れてしまったという。

西餅屋立場跡

西餅屋一里塚碑
西餅屋一里塚
  茶屋跡のすぐ先で国道142号を横切りしばらく行くと一里塚(53里)碑が立っている。《西餅屋一里塚》と呼ばれていたそうだが、塚らしきものは見当たらず大きな一里塚碑が置かれている。付近には倒木が多く路も荒れている。すぐ上に国道のガードレールが見える。
  一里塚のすぐ先に左が崖でトラロープの張られたガレ場の狭い路となる。崖の中腹に造られたガレた路、谷は深く今日一番の険路と言えるだろう。15分ほど険路を行くとようやく国道に出る。
崖の中腹を行くガれて狭い中山道

国道に出る
  国道との角に立つ案内板に“これより先、下諏訪方面。中山道は国道の拡幅などにより、道筋が確定しておりません。これより先は国道を約1.7km下り浪人塚に向かいます。車にご注意下さい”と記されている。大形トラックが行き交う歩道のない国道だが、険路の一人歩きよりもましかもしれない。
浪人塚
  国道を歩くこと20分余り、浪人塚への道が左に分岐する。国道をくぐったところが浪人塚である。元治元年(1864)、水戸浪士一行千余人勤王の志をとげようと和田峠を越えて来た。これを高島・松本両藩が迎え撃ったのがこの地である。激戦の後、勝利した水戸浪士軍は、討ち死にした十数名の同志をこの地に埋めて京に向かった。
 右の写真の中央奥の石碑が別名《浪人塚》、左端に起帳箱。

水戸浪士と高島・松本藩との激戦地碑

起帳箱

浪人塚
 負けた高島藩は、埋められた浪士たちのために塚を造り、氏名の分かった6名の名を刻んだ石碑を建てて祀り、これを《浪人塚》と称した。入口には、起帳箱が置かれており中を見てみると、つい最近のものを含め多くの方が記帳していた。私もこれに倣った。
 浪人塚から少し行くと再び国道に出る。樋橋茶屋本陣跡を経てまた中山道は国道と分かれる。国道と並行して時代劇のロケに使えそうな古の風情たっぷりの街道を復元してくれたようだ、ウッドチップの敷かれたとても歩き易い路だが長くは続かない。
ウッドチップが敷かれた路

木落し坂
木落し坂
 国道に戻り今度は萩倉口バス停のところで木落し坂への道が分岐する。5分ほど坂を上って行くと立派な松の根方に《木落し坂碑》が立っている。碑の正面の崖が木落し坂で、御柱祭が行われる坂である。
  木落し坂を5分ほど下ると国道に戻る。諏訪大社春宮3.2kmの道標の傍らに道祖神、馬頭観音などが安置されている。国道を20分ほど行くと谷筋に祀られた山の神の先でまた国道と分かれ右に下って行く。
山の神 

諏訪大社春宮 幣拝殿
諏訪大社春宮
 杉並木を経て諏訪大社春宮に行き着く。国の重要文化財である幣拝殿が見事だ。御宝殿の四隅に御柱が建立されている。7年目毎に御宝殿の造営と共に建替えられ、次回は平成28年だそうだ。

茅輪くぐり
 茅輪の始まりは神代の昔、“天下に悪病が流行した際に、ちがやを以って輪を作りこれを腰に着けておけば免れる”との故事に基き、犯した罪や穢れを除き去るための祓えの行事

諏訪大社春宮 神楽殿

浮島社の茅輪
万治の石仏
 春宮の森、砥川の扇状地の一角に鎮座している大きな自然石の上に首がちょこんと乗っているだけの稚拙な感じの石仏だが、岡本太郎が「こんな面白いもの見たことがない」と絶賛したそうだ。
 “万治”の名は、胴石に「万治三年十一月一日 願主」の刻銘があることによる。 万治三年→西暦1660年
 

慈雲寺への石段と龍の口
龍の口
 春宮を後にして中山道に戻るとほどなく、こんこんと清水を流れ出す龍の口がある。この龍頭水口は江戸時代中頃の作と云われており、慈雲寺参拝者のためであると同時に多くの旅人ののどを潤してきた。

矢除石
 龍の口左の石段を上った先が慈雲寺、その途中に《矢除石》がある。この石には武田信玄伝説が残されている。

慈雲寺の矢除石

一里塚碑
一里塚碑
 慈雲寺の少し先の民家前に一里塚碑がある。55番目の“下諏訪の一里塚”である。

伏見屋邸
 一里塚碑の隣が伏見屋邸で、150年ほど前に建てられ3年ほど前に復元修理された《歴史的風致形成建造物》である。
 中を覗くと、地域の方が5,6人談笑していて、そこに招き入れられ、茶菓の接待を受ける。たいへん楽しく気のいい方々で30分近くも居座ってしまった。 

伏見屋邸

伏見屋邸内

御作田神社

下諏訪宿入口
 御作田神社前を通り5分ほど行った辺りが宿場の入口で、当時は番所が置かれていたそうだ。温泉宿が建ち並ぶ坂を下り、諏訪大社秋宮に立ち寄ってから下諏訪駅に向かう。

    《下諏訪宿〜塩尻宿》 に続く
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