宿
中山道遊山旅


2013/06/03(月)





宿
長久保宿 2里=7.8Km 和田宿




松尾神社
長久保宿
 長久保宿は、難所の和田峠と笠取峠との間にあって、本陣・脇本陣各1軒、旅籠が43軒、人口721人と比較的大きな宿場であった。宿場の発展と共に町並みが横丁の先に広がり、竪町と横町が直角に交わるという変わった町並みの宿場町となった。また、宿場には上田道も通っていたので《善光寺参り》の旅人の追分としても賑わった。

 松尾神社前の坂を下って行くとほどなく長久保宿竪町に入る。
 
一福処濱屋
 竪町に入るとすぐに、山間部の旅籠建築に多く見られる総二階建て出梁造りの大きな建物が見えてくる。明治時代の初期に旅籠として建てられたが、中山道の旅人が減ったため開業に至らなかった。旅籠建築の歴史的建造物として後世に伝えるべく歴史資料館及び、旅人の休み処として活用している。この斜め向かいが本陣跡である。

一福処濱屋

本陣、高札場跡
本陣跡(石合家住宅)
 石合家は長久保宿創設当時から、江戸時代を通じ本陣を勤めた。四代目当主の下には真田幸村の娘が嫁いでいたそうだ。
 現在の建物は寛永年間(1624-43)に建てられたもので中山道の宿場に現存する本陣の中で最古の建築とされている。門の並びに高札場が復元されている。
問屋(小林家住宅)
 本陣の斜め向かいの古い建物は問屋(小林家住宅)である。小林家は宿場成立当時から代々問屋を勤めてきた。この建物は、総二階建て切妻の妻入、出桁造りで、出格子を付けた二階部分はよくその特徴を表しているそうだ。鬼瓦には真田家の家紋“六文銭”が使われているとのこと。

以上、2012/10/04(木)

問屋(小林家住宅)

JRバス 長久保バス停
以下、2013/06/03(月)

  昨年10/04、長久保宿にたどり着いた。年内には和田峠を越えるつもりでいたが、和田峠は中山道最大の難所、日の短い晩秋から冬場は避けるべきとのことで、延ばし延ばしになり8ヶ月ぶりの中山道歩きとなった。
  このところ梅雨入りしたとは言え好天続き、暑くなる前の今がチャンスと意を決し、和田峠を越えることとした。新幹線 上田駅よりバスで約1時間、10時頃、長久保宿に着く。
 今日は、和田宿の先まで歩くつもりだが、和田宿に宿はない。バスで長久保宿まで戻り宿泊し明朝、バスで継歩地点まで戻り歩き継ぐ予定である。今日の宿、濱田屋さんに不要な荷物を預け和田宿に向かう。

 松尾神社前から急な坂を下り竪町を抜けるとT字路にぶつかる。中山道は左に折れる。ここからが横町でその角に昔も旅籠屋だった今日の宿《濱田屋》がある。右は善光寺への道である。角に“中山道 長久保宿 左ぜんこうじ”と刻まれた石の道標が立っている。

濱田屋:中山道は左から右へ直角に曲る

かつての旅籠 辰野屋
辰野屋
 辰野屋の建築年代は不明だが、江戸末期のものと推定されている。間口11間という大型の建物で、二階の出桁造りの格子や一階の出格子など街道当時の格式高い趣を今に残している。

  横町には、旅籠 辰野屋など古い家も数軒見られるが宿場の面影はあまり残っていない。500mほど行くと国道142号に合流、さらにすぐ先で国道152号とも合流する。
一里塚跡
 152号が合流して中山道はすぐ右に分岐する。そこは48番目の一里塚跡であり、案内板が立っている。長和町指定文化財と銘打ったこの案内板は、中山道歩きをしている人しか見ないと思うのだが、なぜか、トラックが行き交う歩道のない国道からしか読むことが出来ない。

一里塚跡:案内板は国道からしか見られない

落合橋
 一里塚からしばらく行くと2つの国道が分離する。大門川と依田川の合流する付近であり、2つの川を渡る道はちょっとややこしいが道標がしっかりしているので迷う恐れはない。落合橋で大門川を渡ると、古の街道を思わせる風情ある佇まいとなる。
 再び国道142号に出るがすぐに旧道が分岐する。その角に《水明の里》公園があり石塔群が立ち並ぶ。道路整備の際に集められたものだろう。ここからは依田川を左に見ながら行くことになる。
水明の里の石塔群

上深山口バス停
 依田川沿いにしばらく行くと茅葺で宮造り風な屋根の洒落た待合所が建っている。和田村が走らせていた村営バス(現長和町営)の上深山口バス停である。この先のバス停もそれぞれに風情ある待合所であり、、周りの風景に違和感なく溶け込みとても洒落ている。和田宿付近の中山道は国指定の遺跡であり、これに似合ったバス停と言えるだろう。

下和田中組バス停

下和田上組バス停

芹沢バス停

和田学校前バス停
ミミズの碑
 道端に《ミミズの碑》なる珍奇な石碑が立っている。この地 蚯蚓(みみず)に住む人々の希望により祀られたものだそうだ。土壌作りに欠かせないミミズだが、干物にしたり解熱剤として煎じて使ってもいたそうだ。

ミミズの碑

三千僧接待碑(右の石碑)
三千僧接待碑
 《ミミズの碑》から5分ほど行くと前方に石碑群が見えてくる。諸国遍歴の僧侶への接待碑で一千人の僧侶への供養接待を発願して結願、さらに二千を増し、碑の一千の上に二を加え三千と改刻した《三千僧接待碑》だ。言われてみれば、石碑に刻まれた“三”の字のバランスが悪い。安永六年(1777)に建立されたものだ。
 それぞれにユニークなバス停、下和田上組、柳又を過ぎると鎮守の森が見えてくる。森のとば口、神社前の道路に立派な地下道が設けられている。車はまったくと言っていいほど通らない。不思議に思い聞いてみると、新国道ができるまでは、引っ切り無しに大型トラックなどが行き交っていてとても横断できる状況ではなかったそうだ。
立派な地下道

杉木立に囲まれた若宮八幡を振り返る
 この若宮八幡神社は、享保六年(1721)に建立されたものであり、武田信玄と戦って敗れた和田城主大井信定の首級が埋葬されているそうだ。この戦いは、信濃を舞台にした武田信玄と上杉謙信の最初の戦いであった。大改修中のようであり3人の職人さんが忙しそうに働いていた。

一里塚(江戸より49里)跡碑

“是より和田宿” 碑
 神社を後にするとすぐに一里塚跡碑(江戸より四十九里)、さらにとんがり帽子の芹沢バス停を経て“是より和田宿”と彫られた大きな自然石が立ち和田宿に入る。

 和田宿に入るとすぐに和田小学校と和田中学校が並んで建ち、その隣に和田埜神社がある。

和田小学校

八幡神社
八幡神社
 学校前から5分ほど行くと八幡神社が見えてくる。江戸時代以前は、八幡神社が宿の入口で《宿の鬼門除け》に建立されたのではないかと考えられているが、和田城主 大井氏の居館の鬼門除けに作られたとの伝承もあるそうだ。本殿前には樹齢500年の大ケヤキも残っている。
 神社から少し行くと追手川橋が見えてくる。江戸時代はこの橋を渡ると賑やかな宿場だったそうだ。追手川を渡るとすぐ右に元旅籠 河内屋がある。旅籠建築の遺構として貴重な存在なことから現在は《歴史の道史料館》となっている。


     《和田宿〜下諏訪宿》 に続く

追手川橋と河内屋
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