宿
中山道遊山旅


2012/10/04(木)




宿
芦田宿 1里16丁=5.6Km 長久保宿




芦田宿入口
芦田宿
 現在の芦田宿は立科町の中心として栄えているが宿場規模は、本陣1軒、脇本陣2軒、旅籠6軒、人口326人程度の小さな宿場だった。この先に笠取峠があり、峠越えの旅人たちの休憩で賑わっていたそうだ。
 蓼科山のある立科町は、本来“蓼科町”とすべきだが、“蓼”が当用漢字になく、また古くは“立科山”とも表記されたことから“立”を用いたとのこと。
  当時の芦田宿は、小さな芦田川を渡った先の交差点付近からはじまっていた。角に現代の常夜燈が設置され“これより 芦田宿”の道標も立っている。
 しばらく行くと“芦田宿”の小さな看板がかかる昔風の街灯が立つ街並みとなる。
本陣跡
 宿場公園の斜め向かいに立派な門構えの本陣跡がある。門をくぐると寛政十二年建立の建物があり往時の繁栄を残している。
脇本陣跡
 本陣の向かい側にあった脇本陣跡には、標柱が立っている。その少し先の交差点角に藤屋商店という蕎麦屋さんがありここにも“芦田宿 脇本陣跡”の標柱が立っている。

風情ある街頭の街並み

本陣跡

脇本陣跡

酢屋茂
酢屋茂(すやも)
 脇本陣の向かい側に味噌・醤油の蔵元《酢屋茂》がある。以前は酢を醸造・販売していたが、明治の半ば頃から味噌・醤油の醸造・販売をはじめたそうだ。
金丸土屋旅館
 酢屋茂の斜め向かいに、旅籠行灯が置かれた《金丸土屋旅館》がある。文政元年(1804)頃よりの旅籠屋で、軒下の看板には“土屋”と書かれているが裏側は“津ちや”と書かれている。江戸に向かう上方の旅人には“津ちや”のほうが馴染むのだろう。
 出張り造りで腕木に彫刻、煙りだしを持つ大屋根などの特徴を持った建物である。

金丸土屋旅館

正明寺
正明寺
 宿外れとなる金丸土屋旅館の少し先に“枝垂桜”や“紫雲の松”で知られる正明寺がある。
笠取峠のマツ並木
 “笠取峠 2.3km”道標の少し先で国道を横切るとほどなく“笠取峠のマツ並木”と刻まれた石碑が立っている。
 慶長七年(1602)、幕府から小諸藩に下付された赤松の苗753本を植えたのが起源であり以後、幕末まで手入れ・補植等管理されてきた。国道から外れたことが幸いし、当時のままの風情を今に残している。

 途中の休憩所付近に、かつて峠の茶屋がりあり、その近くに旅人ののどを潤した“金明水”があり、これが保存されている。

“笠取峠のマツ並木”標柱

松並木

金明水

笠取峠の一里塚
笠取峠の一里塚
 松並木を抜けるときつい登りが続き、旅人の難儀が思われる。勾配がゆるむとほどなく一里塚跡が見える。47番目の《笠取峠の一里塚》である。
笠取峠
 一里塚の先が笠取峠である。街道当時の峠道は現在の国道より高い所を通っており展望に恵まれていたそうだが、国道は切通しの道、見晴は望めない。
 笠取峠に《峠の茶屋》という店が営業しているが、もちろん昔の茶屋ではない。茶屋の少し先の国道に《中山道常夜灯》が据えられており“これより長久保宿”と記されている。

峠の茶屋

笠取峠の切通し国道

常夜燈

中山道源道
中山道源道
 国道と分かれつづら折れの旧国道を10分ほど下ると中山道源道が分岐する。以後、何度か旧国道を横切りながら下り、峠から30分ほどで長久保宿に入る。すぐ先の松尾神社入り口から急な下り坂を下りていくとほどなく宿場の中心部となる。

       《長久保宿〜和田宿》 へ続く

旧国道を横切る源道

是より 長久保宿
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