2012/02/24 |
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深谷宿 | 2里半9丁=10.7Km | 本庄宿 |
【深谷駅舎:ミニ東京駅?】 深谷駅を降りると東京駅と見まがう煉瓦造りの立派な駅舎に驚く。深谷は、利根川から運ばれた土砂が粘土層となり良質の瓦が作られていた。明治になるとこれが煉瓦作りに変わったという。東京駅もこの深谷の煉瓦が使われたそうだ。 【深谷宿:なぜ中山道一の規模】 東西の常夜灯間、15丁(1.7km)が深谷宿。英泉の描いた《岐阻街道 深谷之駅》は、夜の宿場に艶めかしい女性たちを配したものだ。深谷宿は中山道一の規模で、飯盛女も多く遊郭もあった。これは、熊谷宿が飯盛女を置くことを禁じたため旅人が深谷宿に集まったからだそうだ。 古民家や商店など往時の建物も数多く残っている。 |
深谷駅舎 |
東の常夜灯 |
土蔵のある昔風の米屋 |
米蔵かな? |
煉瓦うだつの商家 |
深谷城跡公園 |
【深谷城跡】 深谷城は、唐沢川、福川などに囲まれた低湿地に築かれた平城で室町時代中期に築かれた。豊臣秀吉の小田原攻めで落城するまで、北武蔵における上杉方の支城であった。徳川家康の関東入国後、松平康直らが城主になるが寛永十一年年(1634)廃城となる。 石垣と白壁の塀が見えたとき期待をしたが中は普通の公園、隣りの富士浅間神社をめぐる池と水路は深谷城の外堀の名残をとどめていると案内板に書かれているがとてもそうとは見えない。 |
富士浅間神社、手前の水路が外堀跡とのこと |
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店前に深谷シネマの看板? |
酒屋 |
煉瓦造りの煙突 |
常夜灯を後に宿場を出てほどなく清心寺入口を示す標識が見えてくる。左に折れ踏切を渡ると正面に平清盛の弟・忠度の墓があることで知られた清心寺の山門がある。 | 中山道を挟み呑龍院の鐘楼と常夜灯 |
清心寺山門 |
平忠度供養塔 |
山門を入ったすぐ左に薩摩守平忠度の供養塔がある。一の谷の源平合戦で忠度を討った岡部忠澄がその菩提を弔うため、領地内でもっとも景色の良い地に建てた供養塔である。平家物語や平治物語、保元物語にも記されている話である。 電車でキセルすることを薩摩守ともいう。薩摩守・忠度(ただのり)からきている。キセルは吸口と雁首のみ金属で中間は竹、入口と出口の切符だけで中間はただ乗り。 |
清心寺本殿 |
古民家 |
滝宮神社 |
中山道に戻ると昔ながらの家も残っているがいずれ失われてしまうだろう。国道を横切る角にこの辺りの総鎮守である滝宮神社がある。 |
滝宮神社の先で旧道は国道と合流、右手に日光連山が見える。この辺りは岡部集落、平忠度を討ち取った岡部忠澄の出生地である。 岡部町に入るとすぐに岡部藩主の菩提寺である源勝院がある。この岡部藩の陣屋に10年間幽囚された江戸末期の砲術家・高島秋帆の幽閉地が中山道から少し離れたところにある。 |
樹齢800年のカヤの木 |
普済寺入口の石碑群 |
中山道に戻りしばらくすると右に岡部氏の菩提寺である普済寺の入口が見える。100mほどの参道入口付近に道祖神、馬頭観音、二十二夜塔など多くの石碑が集められている。境内には推定樹齢800年のカヤの木が聳えている。 普済寺からおよそ200mほど離れた畑の中の一角に岡部忠澄の墓がある。 |
岡部忠澄の墓地 |
岡部忠澄の墓 |
雲雀塚 |
島護産泰神社社殿 |
【雲雀塚】 国道と分かれ旧道を行くとすぐに芭蕉句碑(雲雀塚)が置かれている。「原中や 物にもつかず 啼く雲雀」今でも田園地帯が広がっており、芭蕉の句のそのままの場所といえるのだろう。 【島護産泰神社】 旧道をしばらく行くと島護産泰神社が見えてくる。この地区は利根川の氾濫に悩まされていたところで、北西島、南西島、大塚島或いは横瀬、中瀬など島や瀬のつく地名が多く四瀬八島と呼ばれていたところである。少々の高みを島や瀬と呼んでいたのだろう。その島状の地域を守る神社と言う意味で島護(しまもり)と称したと説明板に書かれている。 |
島護産泰神社鳥居 |
【百庚申】 岡部を抜け緩い坂を下り利根川支流の小山川に出る。その途中、高みに建つ八坂神社の法面に沢山の庚申塔が置かれている。幕末の万延元年(1860)、井伊直弼の暗殺、黒船来航など世情は騒然、庚申の年とも重なり百庚申が造立されたのだろう。 【滝岡橋】 滝岡橋は、本庄市との市境を流れる小山川に架かる橋。橋台にはイギリス積のレンガ、欄干や親柱には花崗岩の切石が使用され、国の登録有形文化財に指定されている。行く手に赤城連峰、左には真っ白な浅間山が見える。 |
八坂神社:百庚申 |
滝岡橋、彼方に赤城連山 |